・・・「一度なんか、阿母さんにねだってやっとやって貰うと、満員で横の隅の所にしか、はいれないんでしょう。そうすると、折角その人の顔が映っても、妙に平べったくしか見えないんでしょう。私、かなしくって、かなしくって。」――前掛を顔へあてて、泣いたって・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・「阿母さんは今でも丈夫ですか。」 すると意外な答があった。「いえ、一昨年歿くなりました。――しかし今御話した女は、私の母じゃなかったのです。」 客は私の驚きを見ると、眼だけにちらりと微笑を浮べた。「夫が浅草田原町に米屋を・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母さん、蚊が居ますかって聞くんです。 自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」 主人は火鉢にかざしながら、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ と嘲りながら、さもいとしさに堪えざるごとく言う下に、「若いお父さんに骨をお貰い。母さんが血をあげる。」 俯向いて、我と我が口にその乳首を含むと、ぎんと白妙の生命を絞った。ことこと、ひちゃひちゃ、骨なし子の血を吸う音が、舞台から・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・民子は真面目になって、お母さんが心配して、見てお出で見てお出でというからだと云い訣をする。家の者は皆ひそひそ笑っているとの話であった。 そういう次第だから、作おんなのお増などは、無上と民子を小面憎がって、何かというと、「民子さんは政・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「おッ母さん、追い出されてきました」 省作は笑いながらそういって、えん側へ上がる。母は手の物を置いて、眼鏡越しに省作の顔を視つめながら、「そらまあ……」 驚いた母はすぐにあとのことばが出ぬらしい。省作はかえって、母に逢ったら・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「おッ母さん、実は気が欝して来たんで、一杯飲ましてもらいたいんです、どッかいい座敷を一つ開けてもらいましょうか?」「それはありがとうござります」と、お貞はお君に目くばせしながら、「風通しのええ二階の三番がよかろ。あすこへ御案内お・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
今年の夏休みに、正雄さんは、母さんや姉さんに連れられて、江の島の別荘へ避暑にまいりました。正雄さんは海が珍しいので、毎日朝から晩まで、海辺へ出ては、美しい貝がらや、小石などを拾い集めて、それをたもとに入れて、重くなったのをかかえて家へ・・・ 小川未明 「海の少年」
・・・「まあ九分までは出来たようなものさ、何しろ阿母さんが大弾みでね」「お母の大弾みはそのはずだが、当人のお仙ちゃんはどうなんだい?」「どうと言って、別にこうと決った考えがあるのでもないから、つまり阿母さん次第さ。もっともあの娘の始め・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ねえおっ母さん、あたい本当にそんなことしなかったのよ、皆が言ってるのは嘘よ、だからお父っさんにたのんで、外へ出して貰ってよ」と、母親にたのんだ。安子に甘い母親はすぐ父親に取りついたが、父親は、「鉄公とあったかなかったかは、体を見りゃ判る・・・ 織田作之助 「妖婦」
出典:青空文庫