・・・なあにね、明日あたり屹度母さんから金が来るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴幾ら怒ったって平気さ」 膳の前に坐っている子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい気持で盃を嘗め続けた。 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・今日母さんから手紙が来たよ……」と、私はFに話しかけた。「そう……」と言って彼は私の顔をちらと視たが、すぐまた鉛筆を紙の上に走らした。 私もそれきり黙って盃を嘗めつづけていたが、ふと、机に俯向いている彼の顔に、かなりたくさんの横皺の・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・この後家の事を、私どもはみなおッ母さんとよんでいました。 おッ母さんはすこぶるむずかしい顔をして樋口の顔を見ています、樋口はいつもの癖で、下くちびるをかんではまた舌の先でなめて、下を向いています。そして鸚鵡のかごが本箱の上に置いてありま・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・おまえの母さんはおいらが甲府へ逃げてしまって奉公しようというのを止めてくれたけれども、真実に余所へ出て奉公した方がいくらいいか知れやしない。ああ家に居たくない、居たくない。」と云いながら、雲は無いがなんとなく不透明な白みを持っている柔和・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・まだ柱時計一つかかっていない炉ばたには、太郎の家で雇っているお霜婆さんのほかに、近くに住むお菊婆さんも手伝いに来てくれ、森さんの母さんまで来てわが子の世話でもするように働いていてくれた。 私は太郎と二人で部屋部屋を見て回るような時を見つ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・北村君と阿母さんとの関係は、丁度バイロンと阿母さんとの関係のようで、北村君の一面非常に神経質な処は、阿母さんから伝わったのだ。それに阿母さんという人が、女でも煙草屋の店に坐って、頑張っていようという人だから、北村君の苛々した所は、阿母さんに・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・小母さんは毎日あなたの事ばかり案じていらっしゃるんですよ。今度またこちらへお出でになることになりましてから、どんなにお喜びでしたかしれません。……考えると不思議な御縁ですわね」「妙なものですね。この夏はどうしたことからでしたか、ふとこち・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ラプンツェルは母さんのように落ちついて、「ああ、この毛の長靴をおはき。お前にあげるよ。途中、寒いだろうからね。お前には寒い思いをさせやしないよ。これ、お婆さんの大きな指なし手袋さ。さあ、はめてごらん。ほら、手だけ見ると、まるであたしの汚・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・これで行く度に阿母さんが出て来て、色々打ち釈けた話をしちゃ、御馳走をして帰す。酒のお酌や飯の給仕に出るのがその綾子さんで、どうも様子が可怪しいと思ってるてえと、やがてのこと阿母さんの口から縁談の話が出た。けど秋山少尉は考えておきますと、然い・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・「え、取り戻したというわけじゃないけれど、お母さんが長くつかっていた処ですから」 庭も、庭の向うに見える縄簾のかかった厠も、その上に見える離房の二階も、昔のままであった。十年も前にいったん人に取られたことは、道太も聞いていたが、おひ・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫