・・・パヴィアから先には水田のようなものがあった。どんな寒村でも、寺の塔だけは高くそびえているのであった。 二時ごろミラノ着。ホテル・デュ・パルクに泊まる。子供の給仕人が日本の切手をくれとねだった。伽藍を見物に行く。案内のじいさんを三リラで雇・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社があるが、数町にして道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長している。 この道の分れぎわに榎の・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 当時遊里の周囲は、浅草公園に向う南側千束町三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水田や竹藪や古池などが残っていたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割、または「はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。」とか、「吉原へ矢先そろへて案・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 昭和五年、わたくしが初めて葛西橋のほとりに杖を曳いた時、堤の下には枯蓮の残った水田や、葱を植えた畠や、草の生えた空地の間に釣舟屋が散在しているばかりであったが、その後散歩するごとに、貸家らしい人家が建てられ、風呂屋の烟突が立ち、橋だも・・・ 永井荷風 「放水路」
私共が故郷の金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵工廠辺はまだ淋しい所であった。焼鳥の屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側のがけの下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・洒堂の句の物二、三取り集むるというは鳩吹くや渋柿原の蕎麦畑刈株や水田の上の秋の雲の類なるべく、洒堂また常に好んでこの句法を用いたりとおぼし。しかれども洒堂のこれらの句は元禄の俳句中に一種の異彩を放つのみならず、その品格よ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 遠くに白山山脈の見えるその村は、水田ばかりであったから、七、八月のむし暑さは実にひどかった。涼しいはずの茅屋根の下でも、吹きとおす風がないのだから、汗ふき手拭がじきぬれた。老人は、毎日毎日汗をふきながら机に向っているわたしを可哀そうに・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・この水田達吉とたどたどしげな横文字で書かれた男はどこにいるのか。どんな気持で彼は暮しているか。音信を絶った心が感じられ、外国暮しの微な侘しさがある。―― 私共は、待ち設けていもしなかった小包を受け、随分元気に歩いて、夕暮の散歩道をホテル・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・ その頃、かなり一番池とは、はなれて、その岸辺は葦でみたされ堤は見えない処で崩れ落ちて、思いもかけぬ処から水田に、はてしなく続いて居る。 この池の堤の裏を町に行く里道の道とも云うべきのが通じて居る。 何の人工も加えられず、有りの・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫