・・・が、年若な求馬の心は、編笠に憔れた顔を隠して、秋晴れの日本橋を渡る時でも、結局彼等の敵打は徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった。 その内に筑波颪しがだんだん寒さを加え出すと、求馬は風邪が元になって、時々熱が昂ぶるようになった・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 僕はもう一度一生懸命に沈み勝ちな話を引き戻した。「この間Kが見舞いに来たってね。」「ああ、日帰りでやって来たよ。生体解剖の話や何かして行ったっけ。」「不愉快なやつだね。」「どうして?」「どうしてってこともないけれど・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・実際妹は鼻の所位まで水に沈みながら声を出そうとするのですから、その度ごとに水を呑むと見えて真蒼な苦しそうな顔をして私を睨みつけるように見えます。私も前に泳ぎながら心は後にばかり引かれました。幾度も妹のいる方へ泳いで行こうかと思いました。けれ・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。 二人は言葉を忘れた人のようにいつま・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ しばらく同じ処に影を練って、浮いつ沈みつしていたが、やがて、すいすい、横泳ぎで、しかし用心深そうな態度で、蘆の根づたいに大廻りに、ひらひらと引き返す。 穂は白く、葉の中に暗くなって、黄昏の色は、うらがれかかった草の葉末に敷き詰めた・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 女房は何となく、手拭の中に伏目になって、声の調子も沈みながら、「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年紀恰好じゃ、小児の持っているものなんか、引奪っても自分が欲い時だのに、そうやってちっとずつ皆から貰うお小遣で、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 窓の机に向って、ゆうがた、独り物案じに沈み、見るともなしにそとをながめていると、しばらく忘れていたいちじくの樹が、大きなみずみずした青葉と結んでいる果とをもって、僕の労れた目を醒まし、労れた心を導いて、家のことを思い出させた。東京へ帰・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・けれども大船に救い上げられたからッて安心する二葉亭ではないので、板子一枚でも何千噸何万噸の浮城でも、浪と風との前には五十歩百歩であるように思えて終に一生を浪のうねうねに浮きつ沈みつしていた。 政治や外交や二葉亭がいわゆる男子畢世の業とす・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ 船には、たくさんの金銀が積み込んでありましたから、その重みでか、船は沖へ出てしまって、もう、陸の方がかすんで見られなくなった時分から、だんだんと沈みかけたのでした。どんなに、三人の侍女とお姫さまは驚かれたでありましょう。「やはり、・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ 太陽は、赤く、暮れ方になると海のかなたに沈みました。そのとき、炎のように見える雲が地平線に渦巻いていました。「幸福の島は、あの雲の下のあたりにあるのだろう。」と、みんなはその方を望みながら、いいました。やがて、日がまったく沈んで、・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
出典:青空文庫