・・・橋か曲がり角で頭を打ちつけるか、流れて行って沼へ沈みでもしようものなら助からないところだった。 兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追った。橋までに捕えるつもりだった。 病気の身だった。それでもやっと橋の手前で捕えることはできた。しか・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・貴嬢がいかに深き事情ありと弁解きたもうとも、かいなし、宮本二郎が沈みゆく今のありさまに何の関りあらん。かの三通はげに貴嬢が読むを好みたまわぬも理ぞかし、これを認めしわれ、心乱れて手もふるいければ。されどわれすでにこの三通にて厭き足りぬと思い・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・鈍なる生活もいつしか一月ばかり経って、豊吉はお花の唱歌を聞きながら、居眠ってばかりいない、秋の夕空晴れて星の光も鮮やかなる時、お花に伴われてかの小川の辺など散歩し、お花が声低く節哀れに唱うを聞けばその沈みはてし心かすかに躍りて、その昔、失敗・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・だからかわいたしみったれた考えを起こさずに、恋する以上は霞の靉靆としているような、梵鐘の鳴っているような、桜の爛漫としているような、丹椿の沈み匂うているような、もしくは火山や深淵の側に立っているような、――つねに死と永遠と美とからはなれない・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・「おや、みんな沈みました」と藤さんがいう。自分は、水を隔てて斜に向き合って芝生に踞む。手を延ばすなら、藤さんの膝にかろうじて届くのである。水は薄黒く濁っていれど、藤さんの翳す袂の色を宿している。自分の姿は黒く写って、松の幹の影に切られる・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、少しずつ上澄が出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばん醜い。両方の脚が、くたくた・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・いちど沈めば、ぐうとそれきり沈みきりに沈んで、まさに、それっきりのぱあ、浮ぶお姿、ひとりでもあったなら、拝みたいものだよ。われより若き素直の友に、この世のまことの悪を教えむものと、坐り直したときには、すでに、神の眼、ぴかと光りて御左手なるタ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・すぐに見付かればよろしいのでございますが、もうお落しになってから約八分たっていたそうで、すっかり水を含みまして、沈みかかっていたそうでございます。水上警察がそれを見付けて、すぐに非常号音を鳴らします。すぐに電話で潜水夫を呼び寄せます。無論同・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そのまま考に沈みながら、静に聴いていられる音色である。また何事をも考えず、つかれてぼんやりしている時には、それがためになお更ぼんやり、夢でも見ているような心持になる。西洋の詩にいう揺籃の歌のような、心持のいい柔な響である。 わたくしは響・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・多くの人の玩弄物になると同時に、多くの人を弄んで、浮きつ沈みつ定めなき不徳と淫蕩の生涯の、その果がこの河添いの妾宅に余生を送る事になったのである。深川の湿地に生れて吉原の水に育ったので、顔の色は生れつき浅黒い。一度髪の毛がすっかり抜けた事が・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫