・・・「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。 何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷い。まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありま・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・どの道落ちる城ですが、その没落をはやめたのは、慾にあせって、怪しい企をしたからなんです。 質の出入れ――この質では、ご新姐の蹴出し……縮緬のなぞはもう疾くにない、青地のめりんす、と短刀一口。数珠一聯。千葉を遁げる時からたしなんだ、いざと・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・昔、ある新進作家が先輩大家を罵倒した論文を書いたために、ついに彼自身没落したという話もきいている。口は禍の基である。それに、私は悪評というものがどれだけ相手を傷つけるものであるかということも知っている。私などまだ六年の文壇経歴しかないが、そ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 私の家は父の代に没落したが、息子の私にはそれを盛りかえすだけの力もない。今のところ、せっせと書けば、食うに困るというほどでもないが、没落した家を再興し、産を成すようなタイプとは、私は正反対の人間だ。今は食うに困らなくても、やがて私もま・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・おきんの亭主はかつて北浜で羽振りが良くおきんを落籍して死んだ女房の後釜に据えた途端に没落したが、おきんは現在のヤトナ周旋屋、亭主は恥をしのんで北浜の取引所へ書記に雇われて、いわば夫婦共稼ぎで、亭主の没落はおきんのせいだなどと人に後指ささせぬ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・父も不幸な没落後三十年ぶりで、生れ故郷の土に眠むるべく、はるばると送られてきたのだった。途中自動車の中から、昔のままの軒庇しを出した家並みの通りの中に、何年にも同じ古びさに見える自分らの生れた家がちらと眺められて、自分は気づかないような風を・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ツァラツストラは知恵と力にふくれて山から下り、自己を与えんために民衆への没落を義務と感じ、「汝すべし」を「われは欲す」と顛倒することを宣した。 ディルタイもまた生命と個性との価値を強調した。彼は「全人」の活動を説き、「生」そのものの事実・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・普通妥当の真理への忠実公正というだけでなく、同時代への愛、――実にそのためにニイチェのいわゆる没落を辞さないところの、共存同胞のための自己犠牲を余儀なくせしめらるる「熱き腸」を持たねばならない。彼は永遠の真理よりの命令的要素のうながしと、こ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・少なくともそれはニイチェのいうような、一層高いものに、転生するための恋愛の没落なのだ。そこには恋愛のような甘く酔わせるものはないが、もっと深いかみしめらるべき、しみじみとした慈味があるのだ。円満な、理想的な夫婦は増鏡にたとえ、松の緑にたとえ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 昔流の古るくさいことばかりを守っている者は、次第に没落に近づいていた。人の悪い、目さきのきく、敏捷な男が、うまいことをやった。薪問屋は、石炭問屋に変り、鶏買いは豚買いに変った。それでうまいことをやった。いつまでも、薪問屋ばかりをやって・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫