・・・ さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、日射もそこばかりはものの朦朧として淀むあたりに、――微との風もない折から、根なしに浮いた板な・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣をたてる。色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。もう一つは窓掛けだ。織物ではあるが秋草が茂っている叢になっている。またそこには見えないが、色づきかけた・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ただ二人が唄う節の巧みなる、その声は湿りて重き空気にさびしき波紋をえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、周囲に人影見えず、二人はわれを見たれど意にとめざるごとく、一足歩みては唄い、かくて東屋の前に立ちぬ。姉妹共に色蒼ざめたれど楽しげ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・夕凪の海面をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は渚を打てり。山彦はかすかに応えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒めて山のかなたより今の我を呼ぶならずや。 老夫婦は声も節も昔・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・たぶん羽虫が飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに『幸ちゃんの話は何でした。』『神田の叔父の方へしばらく往っていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。』『先生何と言って・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・徳二郎は堤をおり、橋の下につないである小舟のもやいを解いて、ひらりと乗ると、今まで静まりかえっていた水面がにわかに波紋を起こす。徳二郎は、「坊様早く早く!」と僕を促しながら櫓を立てた。 僕の飛び乗るが早いか、小舟は入り江のほうへと下・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・自殺の虫の感染は、黒死病の三倍くらいに確実で、その波紋のひろがりは、王宮のスキャンダルの囁きよりも十倍くらい速かった。縄に石鹸を塗りつけるほどに、細心に安楽の往生を図ることについては、私も至極賛成であって、甥の医学生の言に依っても、縊死は、・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ひとり者の放浪の生活だと覚悟して、橋の欄干によりかかったら、急にどっと涙が出て来て、その涙がぽたんぽたんと川の面に落ち、月影を浮べてゆっくり流れているその川に、涙の一滴ずつ落ちる度毎に小さい美しい金の波紋が生じて、ああ、それからもう二十年ち・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・突きおとされた豆腐屋の末っ子は落下しながら細長い両脚で家鴨のように三度ゆるく空気を掻くようにうごかして、ぼしゃっと水面へ落ちた。波紋が流れにしたがって一間ほど川下のほうへ移動してから波紋のまんなかに片手がひょいと出た。こぶしをきつく握ってい・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・水面を掠めてとぶ時に、あの長い尾の尖端が水面を撫でて波紋を立てて行く。それが一種の水平舵のような役目をするように見える。それにしてもこの鳥が地上に下りている時に絶えず尾を振動させるのはどういう意味だか分からない。ああやっている方が、急に飛出・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
出典:青空文庫