・・・ すると、子供が泣きながら、こう言いました。「お爺さん。御免よ。若し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生だから勘弁してお呉れよ。」 いくら子供がこう言っても、爺さんは聞きませんでした。そうして、唯早く・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・暫らくすると、女の泣き声がきこえた。男はぶつぶつした声でなだめていた。しまいには男も半泣きの声になった。女はヒステリックになにごとか叫んでいた。 夕闇が私の部屋に流れ込んで来た。いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なの・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・彼もこれ以上Kに追求されては、ほんとうは泣き出すほかないと云ったような顔附になる。彼にはまだ本当に、Kのいうその恐ろしいものの本体というものが解らないのだ。がその本体の前にじり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたように刻々と陥没しつゝ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と言いつつ弟は台所に上って、声を上げて泣きだしました、この時、始めて病人は「良ちゃん、よかったね」と、久し振りに笑顔を見せました。 其夜半から看護婦が来ました。看護婦は直ぐ病人の傍へ行って脈をはかり、験温などしました。そして、いきなり本・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・それはもう嗚咽に近かった。 ある夜、彼は散歩に出た。そしていつの間にか知らない路を踏み迷っていた。それは道も灯もない大きな暗闇であった。探りながら歩いてゆく足が時どき凹みへ踏み落ちた。それは泣きたくなる瞬間であった。そして寒さは衣服・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・と、樋口はさびしい笑いをもらしてちょっと振り向きましたが、すぐまた、下を向いてしまいました、 なぜかおッ母さんは、泣き面です、そして私をしかるように「窪田さん、そんなものをごらんになるならあっちへ持っていらっしゃい」「いいかい君、」・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・とえば、竜ノ口の法難のとき、四条金吾が頸の座で、師に事あらば、自らも腹切らんとしたことを、肝に銘じて、後年になって追憶して、「返す/\も今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付て、泣き悲しみ給ひしは、如何なる世にも忘れ難・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・老人には、泣き出しそうな、哀しげな表情があった。 彼は、朝鮮語は、「オブソ」という言葉だけしか知らなかった。それでは話が出来なかった。「どこに住んでいるんだ。」 露西亜語できいてみた。 黄色い歯を見せて老人は何か云った。語調・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・これを聞いていた源三はしくしくしくしくと泣き出したが、程立って力無げに悄然と岩の間から出て、流の下の方をじっと視ていたが、堰きあえぬ涙を払った手の甲を偶然見ると、ここには昨夜の煙管の痕が隠々と青く現れていた。それが眼に入るか入らぬに屹と頭を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・私はぎょう天して、もう半分泣きながらやって行くのです。すると娘が下の留置場から連れて来られます。青い汚い顔をして、何日いたのか身体中プーンといやなにおいをさせているのです。――娘の話によると、レポーターとかいうものをやっていて、捕かまったそ・・・ 小林多喜二 「疵」
出典:青空文庫