・・・人をあざむくか、己をあざむくか、どこかでうそをつかなければ、とうていああおおげさには、おいおい泣けるわけのものじゃない。――そこで、自分は一も二もなく樗牛をうそつきだときめてしまったのである。だからそれ以来、二度とあの「わが袖の記」や何かを・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・花田 泣ける奴は時々涙をこぼすようにしろ、いいか……じゃあけるぞ。沢本 花田、ちょっと待て……(茶碗おいドモ又、貴様の涙をこの中に入れとくぞ。これはともちゃんのだ。尻の後ろにやっとけ。あわててこぼすな。花田 しいっ。じゃあ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・泣かない世代、泣けない私たちはもしかしたら、泣く時代、泣ける彼等より不幸なのかも知れない。 してみれば、よしんば二十歳そこそこだったとはいえ、女との別れ話に泣きだした時の私は案外幸福だったのかも知れない。取り乱すほど悲しめたのは、今にし・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・その時、今でも覚えている、俺はワッと声をあげて泣けるものなら、子供よりもモッと大声を上げて、恥知らずに泣いてしまいたかった。 しばらくして、赤い着物をきた雑役が、色々な「世帯道具」――その雑役はそんなことを云った――を運んできてくれた。・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・へ特筆大書すべき始末となりしに俊雄もいささか辟易したるが弱きを扶けて強きを挫くと江戸で逢ったる長兵衛殿を応用しおれはおれだと小春お夏を跳ね飛ばし泣けるなら泣けと悪ッぽく出たのが直打となりそれまで拝見すれば女冥加と手の内見えたの格をもってむず・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・親戚の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていた・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・あのくらい単純な内容で泣ける人が今の世にもあるかと思ったらありがたかった。我々はもっとずっと、擦れてるから始末が悪い。と云ってあすこがつまらないんじゃない。かなり面白かった。けれどもその面白味はあの初菊という女の胴や手が蛇のように三味線につ・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・「刑事なんぞここじゃ横柄な顔してるけど、お店へああいう人が来ると、まったく泣けるわ。そりゃねちねちしてしつっこいのよ。つんつんすりゃ仇されるしさ、うっかりサービスすりゃエロだってひっかけるしさ。――お店だってよくかり倒されんのヨ」 ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・わたしまで泣いたりしてごめんなさい、でもわたし、やっぱり泣けるのよ、といいながら。――櫛田さんにはこういう飾らない、人柄まるむきのところがある。そこが彼女を型にはめず、すました女史にしてしまわないところではないだろうか。 今日婦人民主新・・・ 宮本百合子 「その人の四年間」
・・・「それは泣いたわ。泣けるのがあたりまえよ。そうじゃないの。だから、よく云って下すったというのよ。これから、何でもあなたの気がついたことはみんな云って頂戴ね。これは本当のお願いよ」 手紙ばかりで暮した年月は、それらの手紙がどんなに正直・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫