・・・「ええ、胞衣を埋めた標に立てる石ですね。」「どうして?」「ちゃんと字のあるのも見えますもの。」 彼女は肩越しにわたしを眺め、ちらりと冷笑に近い表情を示した。「誰でも胞衣をかぶって生まれて来るんですね?」「つまらないこ・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・ 周囲に柵を結いたれどそれも低く、錠はあれど鎖さず。注連引結いたる。青く艶かなる円き石の大なる下より溢るるを樋の口に受けて木の柄杓を添えあり。神業と思うにや、六部順礼など遠く来りて賽すとて、一文銭二文銭の青く錆びたるが、円き木の葉のごと・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・浄め砂置いた広庭の壇場には、幣をひきゆい、注連かけわたし、来ります神の道は、(千道、百綱とも言えば、(綾を織り、錦と謡うほどだから、奥山人が、代々に伝えた紙細工に、巧を凝らして、千道百綱を虹のように。飾の鳥には、雉子、山鶏、秋草、もみじを切・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・で、般若は一挺の斧を提げ、天狗は注連結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に一口の太刀を佩く。 中に荒縄の太いので、笈摺めかいて、灯した角行燈を荷ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、媚かしき女の祇園囃子などに斉しく、特に夜に入っ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 往来留の提灯はもう消したが、一筋、両側の家の戸を鎖した、寂しい町の真中に、六道の辻の通しるべに、鬼が植えた鉄棒のごとく標の残った、縁日果てた番町通。なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被した半纏着が一人、右側の廂が下った小家の軒下・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 渠は手も足も肉落ちて、赭黒き皮のみぞ骸骨を裹みたるたる空に覆れたる万象はことごとく愁いを含みて、海辺の砂山に著るき一点の紅は、早くも掲げられたる暴風警戒の球標なり。さればや一艘の伝馬も来らざりければ、五分間も泊らで、船は急進直江津に向・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ 左山中道、右桂谷道、と道程標の立った追分へ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、頤の尖った、痩せこけた爺さんの、菅の一もんじ笠を真直に首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破脚絆、草鞋穿で、とぼとぼと竹・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
もう昔となった。その頃、雑司ヶ谷の墓地を散歩した時分に、歩みを行路病者の墓の前にとゞめて、瞑想したのである。名も知れない人の小さな墓標が、夏草の繁った一隅に、朽ちかゝった頭を見せていた。あたりは、終日、しめっぽく、虫が細々とした声で鳴・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・なんとなく諦めた顔になった。注連繩屋も蜜柑屋も出ていなかった。似顔絵描き、粘土彫刻屋は今夜はどうしているだろうか。 しかし、さすがに流川通である。雪の下は都会めかしたアスファルトで、その上を昼間は走る亀ノ井バスの女車掌が言うとおり「別府・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・否、一月に一度ぐらいは引き出されて瞥見された事もあったろう、しかし要するに瞥見たるに過ぎない、かつて自分の眼光を射て心霊の底深く徹した一句一節は空しく赤い線青い棒で標点けられてあるばかりもはや自分を動かす力は消え果てていた。今さらその理由を・・・ 国木田独歩 「小春」
出典:青空文庫