・・・か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流してい・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・「一筆示し上げ参らせ候大同口よりのお手紙ただいま到着仕り候母様大へん御よろこび涙を流してくり返しくり返しご覧相成り候」 何だつまらない! と一人の水兵が笑いだした。水野はかまわず、ズンズン読む、その声は震えていた。「ついてはご自・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・陪臣の身をもって、北条義時は朝廷を攻め、後鳥羽、土御門、順徳三上皇を僻陲の島々に遠流し奉ったのであった。そして誠忠奉公の公卿たちは鎌倉で審議するという名目の下に東海道の途次で殺されてしまった。かくて政権は確実に北条氏の掌中に帰し、天下一人の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄わした。「何て、縁儀の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイの・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・それからまた今は導流柵なんぞで流して釣る流し釣もありますが、これもなかなか草臥れる釣であります。釣はどうも魚を獲ろうとする三昧になりますと、上品でもなく、遊びも苦しくなるようでございます。 そんな釣は古い時分にはなくて、澪の中だとか澪が・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・「お母さんの背中を流してあげるわ。」この娘がいつになくそんなことをいゝます。私は今までの苦労を忘れて、そんな言葉にうれしくなりました。 ところがお湯に入って何気なく娘の身体をみたとき、私はみる/\自分の顔からサーッと血の気の引いて行くの・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・この稀な大暑を忘れないため、流しつづけた熱い汗を縁側の前の秋草にでも寄せて、寝言なりと書きつけようと思う心持をもその時に引き出された。ことしのような年もめずらしい。わたしの住む町のあたりでは秋をも待たないで枯れて行った草も多い。坂の降り口に・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は初めは幅広く肥えていたのである。しかし肉はいつの間にか皮の下で消え失せてしまって、その上の皮ががっしりした顴骨と腮との周囲に厚い襞を拵えて垂れている。老人は隠し・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ちょうど学校なぞにある標本を流したようでしたわ」 自分は気がついたように、海の方を見わたす。はるかの果てに地方の山が薄っすら見える。小島の蔭に鳥貝を取る船が一と群帆を聯ねている。「ね、鳩が餌を拾うでしょう」と藤さんがいう。「芝生・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫