・・・あの流れる炎のように情熱の籠った歌ですね。妙子は大きい椰子の葉の下にじっと耳を傾けている。そのうちにだんだん達雄に対する彼女の愛を感じはじめる。同時にまた目の前へ浮かび上った金色の誘惑を感じはじめる。もう五分、――いや、もう一分たちさえすれ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、な・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 彼れが気がついた時には、何方をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり河面を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような渦紋を描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとその戯れを・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か、流れるほどは揺れもしないのに、水に映る影は弱って、倒に宿る蘆の葉とともに蹌踉する。 が、いかに朽ちたればといって、立樹の洞でないものを、橋杭に鳥は棲むまい。馬・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ つい目の前を、ああ、島田髷が流れる……緋鹿子の切が解けて浮いて、トちらりと見たのは、一条の真赤な蛇。手箱ほど部の重った、表紙に彩色絵の草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅の雫を挙げて、その並木の松の、就中、山より高・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ おっちゃんにあっこ、おっちゃんにおんも、おっちゃんがえい、お児ちゃんのかんこ、お児ちゃんのかんこがえいと声がするかと思うほどに耳にある彼の子の言葉を、口にいいさえすればすぐ涙は流れる。何べんも何べんもそれを繰り返しては涙を絞った。・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・昨夜おとよさんに別れて帰るさの愉快は、まるで体が宙を舞って流れるような思いでした。今でもまだ体がふわふわ浮いてるような思いでおります。わたしのような仕合せなものはないと思うと嬉しくて嬉しくて堪りません。 これから先どういうふうにして二人・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 月日は、ちょうど、うす青い水の音なく流れるように、去るものです。のぶ子は、十歳になりました。そして、頭を傾けて、過ぎ去った、そのころのことを思い出そうとしましたが、うす青い霧の中に、世界が包まれているようで、そんなような姉さんがあった・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・ そうおっしゃって、先生の黒いひとみは、同じだいだい色の空にとまったのでした。 流れるものは、水ばかりではありません。なつかしい上野先生がお国に帰られてから三年になります。その間に、おたよりをいただいたとき、北の国の星の光が、青いと・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・その光の流れはこちらへも向うの横丁へも流れて行かず、筧を流れる水がそのまま氷結してしまったように見えた。何か暗澹とした気持で、光を避けて引きかえしたが、また明るい通りに出た。道頓堀筋だった。大きなキャバレエーの前を通ると、いきなり、アジャー・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫