・・・そのうちにふと腰を浮かしかけたのである。知人を見つけたからであった。彼の家のおむかいに住まっている習字のお師匠の娘であった。赤い花模様の重たげな着物を着て五六歩はしってはまたあるき五六歩はしってはまたあるきしていた。次郎兵衛は居酒屋ののれん・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・そうして浮かしてある栓の棒がだんだんに下がって行って丁度所要の文句を書いた区分線が器の口と同高になった時を見すましてもう一度烽火をあげる。乙の方ではその合図の火影を認めた瞬間にぴたりと水の流出を止めて、そうして器の口に当る区分の文句を読むと・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・それでこういう際はかかとを浮かして足の裏の前半に体重を託してあるけば安全だということを発明したわけである。人造石がかわいている場合にはもちろんすべる心配はない。たぶん適当な軟泥の層をかぶっている事が条件であるらしい。しかしもしも軟泥の層が単・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・先生は芝居の桟敷にいる最中といえども、女が折々思出したように顔を斜めに浮かして、丁度仏画の人物の如く綺麗にそろえた指の平で絶えず鬢の形を気にする有様をも見逃さない。さればいよいよ湯上りの両肌脱ぎ、家が潰れようが地面が裂けようが、われ関せず焉・・・ 永井荷風 「妾宅」
九月一日の夕刊に、物々しい防空演習の写真と一緒に市電整理案が発表された。全従業員一万八百人を全部解雇、改めて新規定の四割減給で採用し、八百五十万円を浮かして、永年にたまった八百万円の赤字を一気にうめようと云う整理案である。・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
出典:青空文庫