・・・勿論それはあの神下しの婆なぞとは何の由縁もない人物だったのには相違ありませんが、その視線を浴びると同時に、新蔵はたちまちお島婆さんの青んぶくれの顔を思い出しましたから、もう矢も楯もたまりません。いきなり切符を車掌へ渡すと、仕事を仕損じた掏摸・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ それゆえに大地を生命として踏むことが妨げられ、日光を精神として浴びることができなければ、それはその人の生命のゆゆしい退縮である。マルクスはその生命観において、物心の区別を知らないほどに全的要求を持った人であったということができると私は・・・ 有島武郎 「想片」
・・・実際、水槽に浸したのは、真蒼な西瓜も、黄なる瓜も、颯と銀色の蓑を浴びる。あくどい李の紅いのさえ、淡くくるくると浅葱に舞う。水に迸る勢に、水槽を装上って、そこから百条の簾を乱して、溝を走って、路傍の草を、さらさらと鳴して行く。 音が通い、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ真黒に、どっと来た、煙の中を、目が眩んで遁げたでござえますでの。……… それでがすもの、ご新姐、お客様。」「それじゃ、私たち差出た事は、叱言なしに済むんだね。」「ほってもねえ、いい人扶けし・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふきでている裸にざあッと水が降りかかって、ピチピチと弾みきった肢態が妖しく顫えながら、すくッと立った。官能がうずくのだった。何度も浴びた。「五へんも六ぺんも水かけまんねん。ええ気持やわ」と、後年・・・ 織田作之助 「雨」
・・・登勢は風呂場で水を浴びるのだった。汗かきの登勢だったが、姑をはばかって、ついぞこれまでそんなことをしたことはなく、今は誰はばからぬ気軽さに水しぶきが白いからだに降りかかって、夢のようであった。 蚊帳へ戻ると、お光、千代の寝ている上を伊助・・・ 織田作之助 「螢」
・・・私は日を浴びていても、否、日を浴びるときはことに、太陽を憎むことばかり考えていた。結局は私を生かさないであろう太陽。しかもうっとりとした生の幻影で私を瞞そうとする太陽。おお、私の太陽。私はだらしのない愛情のように太陽が癪に触った。裘のような・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 宇一は、顔に、直接、健二の視線を浴びるのをさけた。暫らくして彼は変に陰気な眼つきで健二の顔をうかゞいながら、「お上に手むかいしちゃ、却ってこっちの為になるまいことい。」と、半ば呟くように云った。 地主は小作料の代りに、今、相場・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・けれども、悪銭身につかぬ例えのとおり、酒はそれこそ、浴びるほど飲み、愛人を十人ちかく養っているという噂。 かれは、しかし、独身では無い。独身どころか、いまの細君は後妻である。先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・雀の糞を鼻のあたまに浴びるなど、わしはいやなのだ。そうして台石には、こう刻んでおくれ。ここに男がいる。生れて、死んだ。一生を、書き損じの原稿を破ることに使った」 メフィストフェレスは雪のように降りしきる薔薇の花弁に胸を頬を掌を焼きこ・・・ 太宰治 「葉」
出典:青空文庫