・・・ 又 わたしは三十歳を越した後、いつでも恋愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道徳的にわたしの進歩したのではない。唯ちょっと肚の中に算盤をとることを覚えたからである。・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・始めの中はわざと負けて見せる博徒の手段に甘々と乗せられて、勢い込んだのが失敗の基で、深入りするほど損をしたが、損をするほど深入りしないではいられなかった。亜麻の収利は疾の昔にけし飛んでいた。それでも馬は金輪際売る気がなかった。剰す所は燕麦が・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。私共の根はいくらかでも大地に延びたのだ。人生を生きる以上人生に深入りしないものは災いである。 同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。お前たちの母上は亡くなるまで、金銭・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・眼を瞑ったようなつもりで生活というものの中へ深入りしていく気持は、時としてちょうど痒い腫物を自分でメスを執って切開するような快感を伴うこともあった。また時として登りかけた坂から、腰に縄をつけられて後ざまに引き下されるようにも思われた。そうし・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすくんで動かれないよ。」「ははははは。」 鼻のさきに漂う煙が、その頸窪のあたりに、古寺の破廂を、なめくじのように這った。「弱え人だあ。」「頼むよ――こっちは名僧・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・吉弥を一夕友人に紹介したが、もう、その時は僕が深入りし過ぎていて、女優問題を相談するよりも、二人ののろけを見せたように友人に見えたのだろう。僕よりもずッと年若い友人は、来る時にも「田村先生はいますか」というような調子でやって来て、帰った時に・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・故郷の風景は旧の通りである、しかし自分は最早以前の少年ではない、自分はただ幾歳かの年を増したばかりでなく、幸か不幸か、人生の問題になやまされ、生死の問題に深入りし、等しく自然に対しても以前の心には全く趣を変えていたのである。言いがたき暗愁は・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・、背広で行くダンス・ホール、ピクニック、――そうした場所で女友を拾い、女性の香気を僅かにすすって、深入りしようとも、結婚しようともせず、春の日を浮き浮きとスマートに過ごそうとするような青年学生、これは最もたのもしからぬ風景である。彼らが浮き・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 自分はもう深入りしてこの児の家の事情を問うことを差控えるのを至当の礼儀のように思った。 では兄さん、この残り餌を土で団めておくれでないか、なるべく固く団めるのだよ、そうしておくれ。そうしておくれなら、わたしが釣った魚を悉皆でもいく・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し科学者と芸術家のコンジェニアルな方面を列挙してみたいと思う。 観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なもの・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
出典:青空文庫