・・・夜になってもやっぱり温いかしら。」「何、すぐに冷たくなってしまう。」 僕はなぜかはっきりとこう云う対話を覚えている。それから僕等の半町ほど向うに黒ぐろと和んでいた太平洋も。…… 六 彼の死んだ知らせを聞・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・同時に薄ら寒い世界の中にも、いつか温い日の光のほそぼそとさして来ることを感じた。 芥川竜之介 「寒さ」
・・・小さい温い手が怖る怖る毛のおどろになって居る、犬の頭に触れた。次第に馴れて来て、その手が犬の背中を一ぱいに摩って、また指尖で掻くように弄った。 レリヤは別荘の方に向いて、「お母あさんも皆も来て御覧。私今クサカを摩って居るのだから」といっ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・「おおけに、ああ、温いわ。――おっちゃん、うちおなかペコペコや」「おっさんもペコペコや。パン食べよか」「おっちゃん、パン持ったはるのン?」「うん。持ってるぜ」「ああ、ほんまに。うちに一口だけ噛らせて」「一口だけ言わん・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・いったいが温い土地である。こんなことは珍しいと、温泉宿の女中は客に語った。往来のはげしい流川通でさえ一寸も積りました。大晦日にこれでは露天の商人がかわいそうだと、女中は赤い手をこすった。入湯客はいずれも温泉場の正月をすごしに来て良い身分であ・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・―― 空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青よりやや温い深青に映った。白い雲がある時は海も白く光って見えた。今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ拡がってザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映っていた。今日も入江はいつものよ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。…… 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこれ・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・なつかしい、温い、幾分動物的な感触のまじっている母の愛! 岩波書店主茂雄君のお母さんは信濃の田舎で田畑を耕し岩波君の学資を仕送りした。たまに上京したとき岩波君がせめて東京見物させようと思っても、用事がすむとさっさと帰郷してしまった。息子・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・──麦飯の温いやつが出来ているのだ。僕も皆について起きる。そうすると、日の長いこと。十一月末の昼の短い時でも、晩が来るのがなか/\待遠しい。晩には夜なべに、大根を切ったり、屑芋をきざんだりする。このあいだ、昼間があまり忙しいので、夜なべに蕎・・・ 黒島伝治 「小豆島」
・・・「寒い満洲でも、兵タイは、こういう温い部屋に起居して居るんで……」「はア、なる程。」特派員は、副官の説明に同意するよりさきに、部屋の内部の見なれぬ不潔さにヘキエキした。が、すぐ、それをかくして、「この中隊が、嫩江を一番がけに渡ったん・・・ 黒島伝治 「前哨」
出典:青空文庫