・・・なりはこの間と変りなく、撫子模様のめりんすの帯に紺絣の単衣でしたが、今夜は湯上りだけに血色も美しく、銀杏返しの鬢のあたりも、まだ濡れているのかと思うほど、艶々と櫛目を見せています。それが濡手拭と石鹸の箱とをそっと胸へ抱くようにして、何が怖い・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 夢中でぽかんとしているから、もう、とっぷり日が暮れて塀越の花の梢に、朧月のやや斜なのが、湯上りのように、薄くほんのりとして覗くのも、そいつは知らないらしい。 ちょうど吹倒れた雨戸を一枚、拾って立掛けたような破れた木戸が、裂めだらけ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・そこよ、しっかりッてこの娘――口へ出したうちはまだしも、しまいには目を据えて、熟と視たと思うと、湯上りの浴衣のままで、あの高々と取った欄干を、あッという間もなく、跣足で、跣足で跨いで――お帳場でそういいましたよ。随分おてんばさんで、二階の屋・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ これで安心して、衝と寄りざまに、斜に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も艶に判然して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可懐いまで、ほんのり人肌が、空に来て絡った。 階段を這った薄い霧も、こ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠がお顔の影に藤色になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」 境が思わず振り返ったことは言うまでもない。「金の吸口で、烏金で張った・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 背後について、長襦袢するすると、伊達巻ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔と、比目魚の・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 湯上りで、眠気は差したり、道中記を記けるも懶し、入る時帳場で声を懸けたのも、座敷へ案内をしたのも、浴衣を持って来たのも、お背中を流しましょうと言ったのも、皆手隙と見えて、一人々々入交ったが、根津、鶯谷はさて置いて柳原にもない顔だ、於雪・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 声がきこえ、湯上りの匂いをぷんぷんさせて、帰ってきた。その顔を一つ撲ってから、軽部は、「女いうもんはな、結婚まえには神聖な体でおらんといかんのやぞ。キッスだけのことでも……」 言いかけて、お君を犯したことをふと想いだし、何か矛・・・ 織田作之助 「雨」
・・・大尉の奥さんは湯上りの好い顔色で、子供を連れて、丁寧に二人に挨拶して通った。 浴場には桜井先生も広岡学士も来ていた。先生は身体を拭いて上りかけたところで、学士だけ鉱泉の中に心地よさそうに入っていた。硝子戸の外には葡萄の蔓も延び延びとして・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・殊に湯上りの時なぞはその頬を紅くして笑って見せたことを思出した。「御塩焼は奈何で御座いますか。もし何でしたら、海胆でも御着け遊ばしたら――」 と言って婆さんは勝手の方から来た。婆さんの孫娘がかしこまって給仕する側には、マルも居て、主・・・ 島崎藤村 「刺繍」
出典:青空文庫