・・・ 後継ぎになる筈の一彰さんという人は、大兵な男であったが、十六のとき、脚気を患った後の養生に祖母はその息子を一人で熱海の湯治にやった。そこでお酌なんかにとりまかれて、それがその人の一生の踏み出しを取り誤らせることになり、廃嫡となった。大・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
・・・ 三階は、湯治客のすいている時なので空部屋が多い。静かな廊下を、二人はスケッチをもって、総子のいる方へ戻った。「長い大神楽だね」「その代りこんな傑作が出来た」「見て呉れ、よう。じゃない?」 吉右衛門の河内山の癖をもじって・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・溺愛していた祖母、母の母が、金をもたせて熱海へ湯治にやった。明治のはじめ、官員の若様が金をもって熱海へ来たのであったから、とりまきがついてお酌をあてがった。それがはじまりでこの人の一生は惨憺たるものとなった。祖母は、不良少年のようにしてしま・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 湯治せよと金を送つてやりたれど 思へば稼業にせはしき母か。 お母さんの御境遇もこれですね。私も出来るだけのことはいたしますから御安心下さい。 店のトラックもずっと無事に動いています。東京の円タクはガソリン・スタンド廃業・・・ 宮本百合子 「二人の弟たちへのたより」
・・・光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山である。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 八月の末に、師団長は湯治場から帰られた。暑中休暇も残少なになった。二十九日には、土地のものが皆地蔵様へ詣るというので、石田も寺町へ往って見た。地蔵堂の前に盆燈籠の破れたのを懸け並べて、その真中に砂を山のように盛ってある。男も女も、線香・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫