・・・薄暗い湿っぽい朽葉の匂のする茂みの奥に大きな虎杖を見付けて折取るときの喜びは都会の児等の夢にも知らない、田園の自然児にのみ許された幸福であろう。これは決して単なる食慾の問題ではない。純な子供の心はこの時に完全に大自然の懐に抱かれてその乳房を・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・天井の低いのや柱の細いのが、さも茶がかった空気を作るとともに、いかにも湿っぽい陰気な感じがした。そうして畳といわず襖といわずはなはだしく古びていた。向こうの藤棚の陰に見える少し出張った新築の中二階などとくらべると、まるで比較にならないほど趣・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・そう思って見ると何だか壁が湿っぽい。指先で撫でて見るとぬらりと露にすべる。指先を見ると真赤だ。壁の隅からぽたりぽたりと露の珠が垂れる。床の上を見るとその滴りの痕が鮮やかな紅いの紋を不規則に連ねる。十六世紀の血がにじみ出したと思う。壁の奥の方・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 鹿が少くても五六疋、湿っぽいはなづらをずうっと延ばして、しずかに歩いているらしいのでした。 嘉十はすすきに触れないように気を付けながら、爪立てをして、そっと苔を踏んでそっちの方へ行きました。 たしかに鹿はさっきの栃の団子にやっ・・・ 宮沢賢治 「鹿踊りのはじまり」
・・・やや湿っぽい山気、松林、そこへ龍を描こうとする着想は、常時生気あるものであったに違いない。然し平等院の眺めでさえ、今日では周囲に修正を加えて一旦頭へ入れてからでないと、心に躍り込んで来る美が尠い。「――京都の文化そのものがそうじゃない?・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・今月は雨が多く、鬱陶しく壁の湿っぽいような日が続いたが、今日はまがうかたない六月の天気だ。爽やかで、初夏らしく暑い。暑く、外光の燦らかなのが心持よい。十七の女中と、閑静な昼食をたべた。――今頃、Yはどの辺だろう。汽車の中は今日のような天気で・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
・・・どこにも窓のない壁の厚い廊下には、湿っぽい古くさい匂いがある。 台所は明るい。窓が晴れやかに開いて、その窓際に台があって、薄い色の髪の毛がすきとおるような工合に光線を受け一人の背広をきた中老人がハムを刻んでいる。わきに小鍋と玉子が二つこ・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ その熱と、その水とに潤されて、地の濃やかな肌からは湿っぽい、なごやかな薫りが立ちのぼり、老木の切株から、なよなよと萌え出した優雅な蘖の葉は、微かな微かな空気の流動と自分の鼓動とのしおらしい合奏につれて、目にもとまらぬ舞を舞う。 こ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・長崎のは湿っぽい。先ず黝ずみ、やがては泥に成るというように感じられる。重い。そして、沈鬱だ。 昨夜深更まで碁を打っていた隣室の客、もう朝飯を食べている声がする。Y、切なそうな顔つきで枕についたまま、「――あなた一人で行って」・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・我々は希望するしないに拘わらず、生粋の放蕩者ユロ男爵を遂に社会のどん底につき落したパリの美人局、従妹ベットの共犯者マルヌッフ夫妻の住んでいるぞっとするような湿っぽいルーブルの裏通りへ連れ込まれる。マルヌッフ夫婦の悪行で曇った食事皿の中の隠元・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫