・・・が、三浦は澱みなく言を継いで、『これが僕にとっては、正に第一の打撃だった。僕は彼等の関係を肯定してやる根拠の一半を失ったのだから、勢い、前のような好意のある眼で、彼等の情事を見る事が出来なくなってしまったのだ。これは確か、君が朝鮮から帰って・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・衣食のために色々の業に従がい、種々の人間、種々の事柄に出会い、雨にも打たれ風にも揉れ、往時を想うて泣き今に当って苦しみ、そして五年の歳月は澱みながらも絶ず流れて遂にこの今の泡の塊のような軽石のような人間を作り上たのである。 三年前までは・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・川は巌の此方に碧の淵をなし、しばらく澱みて遂に逝く。川を隔てて遥彼方には石尊山白雲を帯びて聳え、眼の前には釜伏山の一トつづき屏風なして立つらなれり。折柄川向の磧には、さしかけ小屋して二、三十人ばかりの男打集い、浅瀬の流れを柵して塞き、大きな・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・と、今まで泣伏していた間に考えていたものと見えて、心有りたけを澱みなく言立てた。真実はおもてに現われて、うそや飾りで無いことは、其の止途無い涙に知れ、そして此の紛れ込者を何様して捌こうか、と一生懸命真剣になって、男の顔を伺った。目鼻立の・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 私が気乗りのしない生返事をしていたのだが、佐野君はそれにはお構いなしに、かれの見つけて来たという、その、いいひとに就いて澱みなく語った。割に嘘の無い、素直な語りかただったので、私も、おしまいまで、そんなにいらいらせずに聞く事が出来た。・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・太陽は磨きたての藍銅鉱のそらに液体のようにゆらめいてかかり融けのこりの霧はまぶしく蝋のように谷のあちこちに澱みます。(ああこんなけわしいひどいところを私は渡って来たのだな。けれども何というこの立派 諒安は眼を疑いました。そのいちめん・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・ ※ 山山にパラフ※ンの雲が白く澱み、夜が明けました。黄色なダァリヤはびっくりして、叫びました。「まあ、あなたの美しくなったこと。あなたのまはりは桃色の後光よ。」「ほんたうよ。あなたのまはりは虹から・・・ 宮沢賢治 「まなづるとダァリヤ」
・・・ 飲料の貯水池が砲台の奥にあって、撃破されたコンクリートの天井が黒い澱み水の上に墜ちかかっているのが、ランターンのちらつく不安定な灯かげの輪のなかに照らし出されて来る。 グーモンへ着いた時には、落ちかかると早い日が山容を濃く近く見せ・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・その芳ばしさは如何にも八月の高燥な暑さや澱みなき日の光と釣り合って、隈なき落付きというような感情を彼女に抱かせる。 ――そうやっていると、彼方の庭までずっと細長く見徹せるやや薄暗い廊下をお清さんがやって来た。白地の浴衣に襷がけの甲斐甲斐・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ 一二秒、立ち澱み、やがておつやさんは、矢絣の後姿を見せながら、しおしお列を離れて、あちらに行った。 彼女は素直に、顔を洗いに行ったのだ。 暫くして、皆席についてしまってから、水で、無理に顔をこすったおつやさんは、赤むけになった・・・ 宮本百合子 「追想」
出典:青空文庫