・・・ 敷居際へ、――炉端のようなおなじ恰好に、ごろんと順に寝かして、三度ばかり、上から掌で俯向けに撫でたと思うと、もう楽なもの。 若い人が、ずかずか入って、寝ている人間の、裾だって枕許だって、構やしません。大まかに掻捜して、御飯、お香こ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・猟はこういう時だと、夜更けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉端で茶漬を掻っ食らって、手製の猿の皮の毛頭巾を被った。筵の戸口へ、白髪を振り乱して、蕎麦切色の褌……いやな奴で、とき色の禿げたのを不断まきます、尻端折りで、六十九歳の代官婆・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・国の方で留守居するおげんが朝夕の友と言えば、旦那の置いて行った机、旦那の置いて行った部屋、旦那のことを思い二人の子のことを思えば濡れない晩はなかったような冷たい閨の枕―― 回想は又、広い台所の炉辺の方へもおげんの心を連れて行って見せた。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・先生のような清潔好きな人が、よくこのむさくるしい炉辺に坐って平気で煙草が喫めると思われる程だ。 高瀬の来たことを聞いて、逢いに来た町の青年もあった。どうしてこんな田舎へ来てくれたかなどと、挨拶も如才ない。今度の奥さんはミッション・スクウ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・謂わんや、ふるさとの人々の炉辺では、辻馬の家の末弟は、東京でいい恥さらしをしているそうだのう、とただそれだけ、話題に上って、ふっと消え、火を掻き起してお茶を入れかえ、秋祭りの仕度に就いて話題が移ってゆく、という、そんな状態ではないかと思う。・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・ 親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果している始末なのだ。 炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてなら・・・ 太宰治 「父」
・・・冬ならば、炉辺に坐って燃えあがる焚火の焔を眺めていた。なぞなぞが好きであった。或る冬の夜、太郎は炉辺に行儀わるく寝そべりながら、かたわらの惣助の顔を薄目つかって見あげ、ゆっくりした口調でなぞなぞを掛けた。水のなかにはいっても濡れないものはな・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・冬の或日の夜、デカルトは炉辺に坐して考え始めた。彼は歴史的現実的自己として、歴史的現実において考え始めたのである。彼は疑い疑った。自己の存在までも疑った。しかし彼の懐疑の刃は論理そのものにまで向わなかった。真の自己否定的自覚に達しなかった。・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ 勘助は、そういったきりだ。炉辺に坐りこみ、わが家にいるように、乱胸を片づけ出した。勇吉は、立ちはだかって、勘助を見ていたがやがて、「何でえ、何しくさるでえ」とつめよせて来た。「畜生! うせあがれ! われの家われと焼くが何で・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・きのう雪が降ったのが今日は燦らかに晴れているから、幅広い日光と一緒に、潮の香が炉辺まで来そうだ。光りを背に受けて、露台の籐椅子にくつろいだ装で母がいる。彼女は不機嫌であった。いつも来る毎に水がうまく出ないから腹を立てるのであった。「――・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
出典:青空文庫