・・・彼の目は一塊の炭火のように不断の熱を孕んでいる。――そう云う目をしているのですよ。 主筆 天才はきっと受けましょう。 保吉 しかし妙子は外交官の夫に不足のある訣ではないのです。いや、むしろ前よりも熱烈に夫を愛しているのです。夫もまた・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ お蓮は考え深そうに、長火鉢の炭火へ眼を落した。「私の国の人間は、みんな諦めが好いんです。」「じゃお前は焼かないと云う訳か?」 牧野の眼にはちょいとの間、狡猾そうな表情が浮んだ。「おれの国の人間は、みんな焼くよ。就中おれ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に団扇を揮ったりする痩せ我慢の幸福ばかりである。 小児 軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・わたしは勿論この火鉢に縁の焦げるほど炭火を起した。が、部屋はまだ十分に暖らなかった。彼女は籐椅子に腰かけたなり、時々両腿の筋肉を反射的に震わせるようにした。わたしはブラッシュを動かしながら、その度に一々苛立たしさを感じた。それは彼女に対する・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・目は瞬きもやんだように、ひたと両の瞳を据えたまま、炭火のだんだん灰になるのを見つめているうちに、顔は火鉢の活気に熱ってか、ポッと赤味を潮して涙も乾く。「いよいよむずかしいんだとしたら、私……」とまた同じ言を呟いた。帯の間から前の端書を取・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 一本の燐寸の火が、焔が消えて炭火になってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた―― 突然烈しい音響が野の端から起こった。 華ばなしい光の列が彼の眼の前・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・湯をと乞うに、主人の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そを火の上に懸るとひとしく、主人吹革もて烈しく炭火を煽り、忽地にして熱き茶をすすめくれたる、時に取りておかしく・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・室隅には炭火が顔は見せねど有りしと知られて、室はほんのりと暖かであった。 これだけの家だ。奥にこそ此様に人気無くはしてあれ、表の方には、相応の男たち、腕筋も有り才覚も有る者どもの居らぬ筈は無い。運の面は何様なつらをして現われて来るものか・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・なんでも赤あかさびた鉄火鉢に炭火を入れてあって、それで煙管の脂を掃除する針金を焼いたり、また新しい羅宇竹を挿込む前にその端をこの火鉢の熱灰の中にしばらく埋めて柔らげたりするのであった。柔らげた竹の端を樫の樹の板に明けた円い孔へ挿込んでぐいぐ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ 埋火 炭火を灰で埋めれば酸素の供給が乏しくなるから燃えにくくなって永く保っている。しかし終には燃えてしまうのは空気が少しずつ中を流通している証拠である。 寺田寅彦 「歳時記新註」
出典:青空文庫