・・・「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十二三の色白の小肥りの男で、紳士らしい服装している。併し斯うした商売の人間に特有――かのような、陰険な、他人の顔を正面に視れないような変にしょぼ/・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・二十日ばかり心臓を冷やしている間、仕方が無い程気分の悪い日と、また少し気分のよい日もあって、それが次第に楽になり、もう冷やす必要も無いと言うまでになりました。そして、時には手紙の三四通も書く事があり、又肩の凝らぬ読物もして居りました。 ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」 と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊ねた。「その馬鈴薯なんです、僕はそ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・仏陀の真実教は法華経のほかには無い。仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・「へえ、……としますと……貸越しになっとる分はどう致しましょうか?」「戻させるんだ。」「へえ、でも、あれは、一文も持っとりゃしません。」「無いのか、仕方のない奴だ!――だがまあ二十円位い損をしたって、泥棒を傭うて置くよりゃま・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・特にわたくしは所謂学生生活を仕た歳月が甚だ少くて、むしろ学生生活を為ずに過して仕舞ったと云っても宜い位ですから、自分の昔話をして今の学生諸君に御聞かせ申そうというような事は、実際ほとんど無いと云ってもよいのです。ですから平に御断りを致します・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロクごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校から帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・好い風の来る夕方もすくなく、露の涼しい朝もすくなければ、暁から鳴く蝉の声、早朝からはじまるラジオ体操の掛声まで耳について、毎日三十度以上の熱した都会の空気の中では夜はあっても無いにもひとしかった。わたしは古人の隠逸を学ぶでも何でもなく、何と・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・世に人鬼は無いものだ。つい構わずにどの内へでも這入って御覧よ。」 老人はそこの家の前に暫く立っていて、また戸口と窓とを眺めた。そのうちに老人の日に焼けた顔が忽ち火のように赤くなった。その赤い色は、上着の襟の開いている処に見えている、胸の・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・バニカンタは、何不自由ない暮をし、毎日二度ずつも魚のカレーを食べられる程だったので、彼を憎んでいる者が、決して無いではなかったのです。段々、妻やその他女の人達が喧しく云い出したので、到頭バニカンタは、二三日何処へか出て行きました。そして、間・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫