・・・僕が即今あらん限りの物を抛って、無一文の無産者たる境遇に身を置いたとしても、なお僕には非常に有利な環境のもとに永年かかって植え込まれた知識と思想とがある。外見はいかにも無一文の無産者であろうけれども、僕の内部には現在の生活手段としてすこぶる・・・ 有島武郎 「片信」
・・・文子がくれた金は汽車賃を払うと、もうわずかしか残らず、汽車の食堂での飲み食いが精いっぱいでしたので、汽車を降りて、煙草を買うと、もう無一文。しかし、かえってサバサバした気持で大阪駅から中之島公園まで歩きました。公園の中へはいり、川の岸に腰を・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・薬の原価代を払ったあと、殆んど無一文の状態で、今日つくった丸薬を今日売らねば、食うに困るというありさまだった。 新聞広告代など財布を叩き破っても出るわけはなく、看板をあげるにもチラシを印刷するにもまったく金の出どころはない。万策つきて考・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 喫茶店で一円投げ出して、いま無一文だった。家に現金のある筈もない。階下のゆで玉子屋もきょうこの頃商売にならず、だから滞っている部屋代を矢のような催促だった。たまりかねて、暮の用意にとちびちび貯めていた金をそっくり、ほんの少しだがと、今・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・当時、私はほとんど無一文といっていい状態であった。結納金は二十円、それも或る先輩からお借りしたものである。挙式の費用など、てんで、どこからも捻出の仕様が無かったのである。当時、私は甲府市に小さい家を借りて住んでいたのであるが、その結婚式の日・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・二箇月間、小説が全く書けなかったら、私は、もとの無一文になる筈である。思えば、心細い余裕であったが、私にとっては、それだけの余裕でも、この十年間、はじめての事であったのである。私が東京で生活をはじめたのは、昭和五年の春である。そのころ既に私・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・死んだとたんにむかしの無一文の嫌厭先生にかえるというようなことが書かれていた。これは謂わば三郎の私小説であった。二十二歳をむかえたときの三郎の嘘はすでに神に通じ、おのれがこうといつわるときにはすべて真実の黄金に化していた。黄村のまえではあく・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 東洋大学で同級であった男と同棲、子供、震災、京都の日活の用で、男京都に居るうち、友達にだまされて無一文、やどで、ひどいあつかい。 製畳機を作る店の月報を出すことを、宿やの主人とその家の主とできめ、月給二人の細君連で相談して四十五円・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・出立の時よりもっともっと無一文になり、殆ど乞食姿で戻った。「満州国」から帰る旅費はどこからも補助されなかったのである。 この話をきいた時、私の心にきつく浮んだ一つの活々した絵がある。それはソヴェト同盟の炭坑労働者の生活の有様である。・・・ 宮本百合子 「ドン・バス炭坑区の「労働宮」」
・・・ ヨーロッパ大戦が終る年父につれられて私はアメリカへ行き、ニューヨークに一年いる間に、無一文の言語学をやるひとと結婚した。 この結婚は当時新聞が、百合子はアメリカにごろついていた洗濯屋と夫婦になったなどと書いたりしたことがあり、両親・・・ 宮本百合子 「母」
出典:青空文庫