・・・自分はいつも無口な変人と思われていたくらいで、宿の者と親しいむだ話をする事もめったになければ、娘にもやさしい言葉をかけたこともなかった。毎日の食事時にはこの娘が駒下駄の音をさせて迎えに来る。土地のなまった言葉で「御飯おあがんなさ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・その声に深みがあるように頭脳にも深みがあった。無口ではなかったけれど、ぶつくさした愚痴や小言は口にしなかった。常磐津の名取りで、許しの書きつけや何かを、みんなで芸者たちの腕の批評をしていたとき、お絹が道太や辰之助に見せたことがあった。「・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・夕方福岡からきて、明日は鹿児島へゆき、数日後はまた熊本へもどって、古藤たちの学校で講演するというこの男は、無口で、ひどく傲岸にみえた。あつい唇をむッと結んでいて、三吉はゴツンとぶつかるようなものを感じさせる。そのうち、学生たちがまだ彼の演説・・・ 徳永直 「白い道」
・・・兄の嫁にあたるひとは、おはぐろをつけていた。無口なおとなしい人で、いつもはだしで内井戸のある石じきの台所で働いたり、畑で働いたりしていた。 そういう家の屋根裏が物置きになっていた。板じきの真中に四畳たたみが置いてある。わたしは、そこへ小・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・窪川鶴次郎の妻というような面が家庭内の日常生活のうちでは自然押し出されていたし、又無口な性質で、何かにつけても結論だけ感想風な表現で云うという工合であったから、稲子さんが文学についても生活についても大変鋭いそして健全な洞察力をもっていること・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・ 薄田研二の久作は、久作という人物の切ない気質をよく描き出して演じていた。無口で、激情的で、うつりゆく時世を犇々と肌身にこたえさせつつギリギリのところまで鉄瓶を握りしめている心持が肯ける。久作という人物は、しかしあの舞台では本間教子の友・・・ 宮本百合子 「「建設の明暗」の印象」
・・・それにしても控え目で無口なお佐代さんがよくそんなことを母親に言ったものだ。これはとにかく父にも弟にも話してみて、出来ることなら、お佐代さんの望み通りにしたいものだと、長倉のご新造は思案してこう言った。「まあ、そうでございますか。父はお豊さん・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・ 労働服の無口で堅固な伊豆に梶は礼をのべる気持になった。栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技・・・ 横光利一 「微笑」
・・・私がそういう顔をしている時には妻は決して笑ったりハシャイだりはできないので、自然無口になって、いくらか私の気ムズかしい表情に感染します。親たちの顔に現われたこういう気持ちはすぐ子供に影響しました。初めおとなしく食事を取っていた子供は、何ゆえ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・かすかにほほえみを浮かべながら、無口で、静かに控えておられた。当時はまだ『道草』も書かれておらず、いわんや夫人の『漱石の思い出』などは想像もできなかったころであるから、漱石と夫人との間のいざこざなどは、全然念頭になかった。『吾輩は猫である』・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫