・・・お絹なしには芝居見物はむしろ無意味で、怠屈で、金の濫費であった。お絹に働きかけてゆく気は、今の彼にはないといった方が確かであったけれど、お絹ほど好きな女は、どこにも見当たらなかった。もし事情が許せば、静かなこの町で隠逸な余生を楽しむ場合、陽・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・この二つはそのままの輸入でもなく無意味な模倣でもない。少くとも発明という賛辞に価するだけに発明者の苦心と創造力とが現われている。即ち国民性を通過して然る後に現れ出たものである。 こういう点から見て、自分は維新前後における西洋文明の輸入に・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・と無理に大きな声で笑って見せたが、腑の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめると同時にこの笑がいよいよ不自然に聞かれたのでやはりしまいまで笑い切れば善かったと思う。津田君はこの笑を何と聞いたか知らん・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・人生は無意味だとは感じながらも、俺のやってる事は偽だ、何か光明の来る時期がありそうだとも思う。要するに無茶さ。だから悪い事をしては苦悶する。……為は為ても極端にまでやる事も出来ずに迷ってる。 そこでかれこれする間に、ごく下等な女に出会っ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・こんな風だから、他人は作をしていねば生活が無意味だというが、私は作をしていれば無意味だ、して居らんと大に有意味になる。この相違を来すにゃ何か相当の原因が無くばなるまい。 私は二十世紀の文明は皆な無意義になるんじゃないかと思う。何と云って・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・其方の心の奥にも、このあらゆる無意味な物事の混沌たる中へ関係の息を吹込む霊魂は据えてあった。この霊魂を寝かして置いて混沌たる物事を、生きた事業や喜怒哀楽の花園に作り上げずにいて、それを今わしが口から聞くというのは、其方の罪じゃ。人というもの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・展開されゆく道中の景色を楽しく語合うことも出来ますし、それに一人旅のような無意味な緊張を要しないで気安い旅が出来るように思います。煩いのない静かなところに旅行して暫く落ちついてみたい――こんな慾望を持っていますが、さて容易いようで実行できな・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・ と、花房が止めた。 花房に黙って顔を見られて、佐藤は機嫌を伺うように、小声で云った。「なんでございましょう」「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」「生理的腫瘍」 と、無意味に繰り返して、佐藤は呆れたような顔をしている。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。 十 この日から、彼は、彼の妻を苦しめているものは事実果してこの漁場の魚か花園の花々か、そのどち・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・のことに執着する所などはほとんど無意味に感ぜられるに相違ない。しかし実際はこの作家ほど深く確実に人間のあらゆる性情をつかんでいる者は、たぐいまれなのである。私はここに彼のつかんだ無数の真実を数え上げることはできない。ただ一つ、、彼の洞察した・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫