・・・それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終爛れている眼を擡げた。「今日は。お父さんはもうお出かけかえ?」「ええ、今し方。――お母さんにも困りましたね。」「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思ってい・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・来た処も、行く道も、露草は胡麻のように乾び、蓼の紅は蚯蚓が爛れたかと疑われる。 人の往来はバッタリない。 大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海から親不知の浜を、五智の如来へ詣ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕して、列を造っ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・国境の山、赤く、黄に、峰岳を重ねて爛れた奥に、白蓮の花、玉の掌ほどに白く聳えたのは、四時に雪を頂いて幾万年の白山じゃ。貴女、時を計って、その鸚鵡の釵を抜いて、山の其方に向って翳すを合図に、雲は竜のごとく湧いて出よう。――なおその上に、可いか・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 舌はここで爛れても、よその女を恋うるとは言えなかったのである。「どの、お写真。」 と朗に、しっとり聞えた。およそ、妙なるものごしとは、この時言うべき詞であった。「は、」 と載せたまま白紙を。「お持ちなさいまし。」・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 言っておかなかったが、かの女の口のはたの爛れが直ったり、出来たりするのは、僕の初めから気にしていたところであった。それに、時々、その活き活きした目がかすむのを井筒屋のお貞が悪口で、黴毒性のそこひが出るのだと聴いていたのが、今さら思い出・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
一 牝豚は、紅く爛れた腹を汚れた床板の上に引きずりながら息苦しそうにのろのろ歩いていた。暫く歩き、餌を食うとさも疲れたように、麦藁を短く切った敷藁の上に行って横たわった。腹はぶってりふくれている。時々、その・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・両手の花と絵入新聞の標題を極め込んだれど実もってかの古大通の説くがごとくんば女は端からころりころり日の下開山の栄号をかたじけのうせんこと死者の首を斬るよりも易しと鯤、鵬となる大願発起痴話熱燗に骨も肉も爛れたる俊雄は相手待つ間歌川の二階からふ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・何が腐り爛れたかと薄気味悪くなって、二階の部屋から床板を引きへがして見ると、鼠の死骸が二つまでそこから出て来て、その一つは小さな動物の骸骨でも見るように白く曝れていたことを思い出した。私は恐ろしくなった。何かこう自分のことを形にあらわして見・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・首筋が赤く爛れたままの姿で、私は、ぼんやり天沼の家に帰った。 自分の運命を自分で規定しようとして失敗した。ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋をそっと撫でた。他の人も皆、よかった、よかったと言って・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・「その腹をみれば、ことごとに常に血爛れたりとまおす」は、やはり側面の裂罅からうかがわれる内部の灼熱状態を示唆的にそう言ったものと考えられなくはない。「八つの門」のそれぞれに「酒船を置きて」とあるのは、現在でも各地方の沢の下端によくあるような・・・ 寺田寅彦 「神話と地球物理学」
出典:青空文庫