・・・始めに入れておいただけの物が煮爛れ煮固まっているに過ぎないだろうとしか思われない。しかし私はその鍋の底に溜った煎汁を眼を瞑って呑み干そうと思う。そうして自分の内部の機能にどのような変化が起るかを試験してみようと思っている。もし私の眼や手にな・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
四五日前に、善く人にじゃれつく可愛い犬ころを一匹くれて行った田町の吉兵衛と云う爺さんが、今夜もその犬の懐き具合を見に来たらしい。疳癪の強そうな縁の爛れ気味な赤い目をぱちぱち屡瞬きながら、獣の皮のように硬張った手で時々目脂を拭いて、茶の・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・悪病をつつむ腐りし肉の上に、爛れたその心の悲しみを休ませるのである。されば河添いの妾宅にいる先生のお妾も要するに世間並の眼を以て見れば、少しばかり甲羅を経たるこの種類の安物たるに過ぎないのである。五 隣りの稽古唄はまだ止まぬ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・家族のものが駈けつけて夕日の光に灰を掻き分けた時、仰向になった儘爛れた太十の姿を発見した。有繋に雷鳴を恐れたと見えて両手は耳を掩うて居た。屋根の裏に白い牙をむいた鎌が或は電気を誘うたのであったろうか、小屋は雷火に焼けたのである。小屋に火の附・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 焦け爛れたる高櫓の、機熟してか、吹く風に逆いてしばらくはと共に傾くと見えしが、奈落までも落ち入らでやはと、三分二を岩に残して、倒しまに崩れかかる。取り巻くの一度にパッと天地を燬く時、の上に火の如き髪を振り乱して佇む女がある。「クララ!・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 家々の屋根や日覆が、日没前の爛れたような光線を激しく反射する往来は、未練する跡もなく撒き散して行った水でドロドロになって、泥から上るムッとしたいきれが、汗じみた人の香と混って、堪らなく鼻をつく。 皆が電車を待って居る。学校帰りの学・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・ナポレオンの腹は、猛鳥の刺繍の中で、毛を落した犬のように汁を浮べて爛れていた。「ルイザ、余と眠れ」 だが、ルイザはナポレオンの権威に圧迫されていたと同様に、彼の腹の、その刺繍のような毒毒しい頑癬からも圧迫された。オーストリアの皇女、・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫