・・・いつも背広の片腕に黒い喪章を巻いていたような気がする。しかし実に頭のいい先生だと思って敬服していた。言葉は自分には少し分りにくいドイツ語であったがその講義は簡潔でしかも要を得た得難い良い講義だと思われた。大事なしかもかなり六かしい事柄の核心・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・何やら大きな者が来て片腕を喰い切って帰った時なども変な心持がするに違いない。章魚や鮑が吸いついた時にそれをもいでのけようと思うても自分には手が無いなどというのは実に心細いわけである。 土葬も火葬も水葬〈も〉皆いかぬとして、それなれば今度・・・ 正岡子規 「死後」
・・・十六の彼女は従兄の忠一の後に大きな元禄紬の片腕を廻し背中に頻りに何か書いた。「ね? だから」 何々と書くのだろう。忠一はしかつめらしく結んだ口を押しひろげるようにして、うむ、うむ、合点している。篤介がひょいと活動雑誌から頭を擡げ何心・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ まぶしいような金髪で、赤い頬で、白衣をまくりあげた片腕いっぱいにうずたかくパンをかかえたまま、ターニャは猫をテーブルの上から追った。 ――今日はどう? あんたのチビさんの御機嫌は。 ――オイ! とてもさかんに体育運動をやってま・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・両眼を細め、片腕を肱ごと前列の椅子の背へもたせかけ舞台を見つめて話をきいている皺深い横顔の輝きを見てくれ。СССРが凡そ百三十万のクラブ員の上に投げているこれは光の一片である。 革命第十三年にあるСССРで、組合員千二十八万人をもつ職業・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 百姓の逃げ去った雪路の上には、その橇の止金にかかって片腕をもがれた七歳の女の児の死骸が発見された。四つの女児は森の中で凍死んで居た。 二十四日 細いゴムの管がある。管は二米ばかりの長さだ。先に小さい楕円形 紅茶こしのような・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・必死で片腕にぶら下っている手塚が殺気立って息を切らしながら、「拘わん、拘わん」と頭を振った。「遠慮している場合じゃない、おい! 石川!」 石川は、後から幸雄の肩を確り押え、「若旦那! 若旦那! 気を落付けなくちゃいけませ・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・女連が買物籠を片腕にひっかけ、片っ方の手で頻りに大きい樅の枝をひっぱり出しては、値切っている。 自分たちは、ホテル暮しだ。 その上、樅の木にローソクをつけて、三鞭酒をのむというような習慣は子供のときから持ち合わせていない。 橇に・・・ 宮本百合子 「モスクワの姿」
出典:青空文庫