・・・そして、見わたすかぎり、なんの物影も目に止まるものとてはありませんでした。 よく晴れた、寒い日のことで、太陽は、赤く地平線に沈みかかっていました。 このときたちまち、その遠い、寂寥の地平線にあたって、五つの赤いそりが、同じほどにたが・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・ 提灯が物影から飛び出して来た。温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、「お疲れさんで……」 温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡麻塩である。 こうして客引きが出迎えてい・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・たとえば向日葵や松葉牡丹のまだ小さな時分、まいた当人でも見つけるのに骨の折れるような物影にかくれているのでさえ、いつのまにか抜かれているのに驚いた。これほど細かい仕事をするのはたぶん女の子供らしい。ある時一人で行っていた時、庭のほうで子供の・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・ 風が吹き、物影がはためくので一層沈んで見える山崎の大飾窓の処に人だかりがある。私は、「何でしょう、病人?」と怪しみながら通りがかりに振向いて見た。思いがけず人の間から、見覚えのある紅い婦人帽が覗いている。私は立ち止った。よく見・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
出典:青空文庫