・・・ T君は階段を上りながら、独言のようにこう言った。「このベルは今でも鳴るかしら。」 ベルは木蔦の葉の中にわずかに釦をあらわしていた。僕はそのベルの釦へ――象牙の釦へ指をやった。ベルは生憎鳴らなかった。が、万一鳴ったとしたら、――・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・小母さんは、そのおばけを、魔を、鬼を、――ああ、悪戯をするよ、と独言して、その時はじめて真顔になった。 私は今でも現ながら不思議に思う。昼は見えない。逢魔が時からは朧にもあらずして解る。が、夜の裏木戸は小児心にも遠慮される。……かし・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・まあ、独言を云って、誰かと話をしているようだよ…… (四辺そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒で、黙っていて、暗号が出来ると・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・母様が、 と独言のようにおっしゃったが、それっきりどこかへいらっしゃったの。私は目が眩んじまって、ちっとも知らなかった。 ええ! それで、もうそれっきりお顔が見られずじまい。年も月もうろ覚え。その癖、嫁入をおしの時はちゃんと知っ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ と声を限り、これや串戯をしては可けないぜと、思わず独言を言いながら、露草を踏しだき、薄を掻分け、刈萱を押遣って、章駄天のように追駈けまする、姿は草の中に見え隠れて、あたかもこれ月夜に兎の踊るよう。「お雪さん、おうい、お雪さん。」・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ と歎息するように独言して、扱いて片頬を撫でた手をそのまま、欄干に肱をついて、遍く境内をずらりと視めた。 早いもので、もう番傘の懐手、高足駄で悠々と歩行くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々な処へ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・と又独言ちた。そんな事で、却て岡村はどうしたろうとも思わないでいる所へ、蚊帳の釣手の鐶をちゃりちゃり音をさせ、岡村は細君を先きにして夜の物を運んで来た。予は身を起して之を戸口に迎え、「夜更にとんだ御厄介ですなア。君一向蚊は居らん様じゃな・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ こう独言を言いつつ省作は感に堪えなくなって、起って座敷じゅうをうろうろ歩きをするのである。省作はもう腹の中の一切のとどこおりがとれてしまって、胸はちゃんと定まった。胸が定まれば元気はおのずから動く。 翌朝省作は起こされずに早く起き・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・とを言わなくたって、お上さんにゃしょっちゅう小使いを貰ってらあ」「ちょ! 芝居気のねえ野郎だな」と独言ちて、若衆は次の盤台を洗い出す。 しばらくするとまた、「こう三公」「何だね? 為さん」「そら、こないだお上さんのとこへ訪ね・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・それを主人はちらと見て、『何を言っても命あっての物種だ、』と大きな声で独言を初めた、『どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろうが死んじまえば命がねえからなア。』 この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気勢がしたが、主人はそれには・・・ 国木田独歩 「郊外」
出典:青空文庫