・・・勿論下戸の風中や保吉は二つと猪口は重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々健啖だった。 この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・ 牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口をさしつけた。「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。おまけにまた乗った船が、ちょうど玄海へかかったとなると、恐ろしいしけを食ってね。――ねえ、お蓮さん。」「ええ、私はもう船も何・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・と云う声と、猪口の糸底ほどの唇を、反らせて見せるらしいけはいがした。 外濠線へ乗って、さっき買った本をいい加減にあけて見ていたら、その中に春信論が出て来て、ワットオと比較した所が面白かったから、いい気になって読んでいると、うっかりしてい・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・画会では権威だと聞く、厳しい審査員でありながら、厚ぼったくなく、もの柔にすらりとしたのが、小丼のもずくの傍で、海を飛出し、銀に光る、鰹の皮づくりで、静に猪口を傾けながら、「おや、もう帰る。」信也氏が早急に席を出た時、つまの蓼を真青に噛ん・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・変れば変るもので、まだ、七八ツ九ツばかり、母が存生の頃の雛祭には、緋の毛氈を掛けた桃桜の壇の前に、小さな蒔絵の膳に並んで、この猪口ほどな塗椀で、一緒に蜆の汁を替えた時は、この娘が、練物のような顔のほかは、着くるんだ花の友染で、その時分から円・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・と座の右に居て、猪口を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向いたままで云った。「まさか。」 とみまわすと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、燈の色が颯と白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。 ・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・と片手に猪口を取りながら、黒天鵝絨の蒲団の上に、萩、菖蒲、桜、牡丹の合戦を、どろんとした目で見据えていた、大島揃、大胡坐の熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は蕃椒を食ったように、赤くなるまで赫と競勢って、「うはははは、う・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、此室に貴方と、離室の茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客が膳の上の猪口をちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ いずれ、金目のものではあるまいけれども、紅糸で底を結えた手遊の猪口や、金米糖の壷一つも、馬で抱き、駕籠で抱えて、長い旅路を江戸から持って行ったと思えば、千代紙の小箱に入った南京砂も、雛の前では紅玉である、緑珠である、皆敷妙の玉である。・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・皿についたのは、このあたりで佳品と聞く、鶫を、何と、頭を猪口に、股をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして芳しくつけてあった。「ありがたい、……実にありがたい。」 境は、その女中に馴れない手つきの、それも嬉しい……酌をしても・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
出典:青空文庫