・・・ さて客は、いまので話の口が解けたと思うらしい面色して、中休みに猪口の酒を一口した。……「……姐さん、ここの前を右へ出て、大な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家の揃った処がある。あれはどこへ行く・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・また杯洗を見て、花を挿直し、猪口にて水を注ぎ入れつつ、ほろりとする。村越 (手を拍撫子 はい、はい。七左、程もあらせず、銚子を引攫んで載せたるままに、一人前の膳を両手に捧げて、ぬい、と出づ。村越 (呆れたる状小父・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・友人は、酒のなみなみつげてる猪口を右の手に持ったがまた、そのままおろしてしまった。「今の僕なら、どうせ、役場の書記ぐらいで満足しとるのやもの、徴兵の徴の字を見ても、ぞッとする程の意気地なしやけど、あの時のことを思うたら、不思議に勇気が出たも・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・と、僕は吉弥に猪口を渡して、「今お座敷は明いているだろうか?」「叔母さん、どう?」「今のところでは、口がかかっておらない」「じゃア、僕がけさのお礼として玉をつけましょう」「それは済みませんけれど」と言いながら、婆アさんが承知・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ こう小鳥が外にあこがれていますうちに、ある日のこと、目のよく見えない娘は、餌猪口をかごの中に倒して、それを直そうと気をもんでいました。小鳥は、娘の手とかごの入り口のところにすきまのあるのを発見しましたので、すばやく身をすぼめて、ついと・・・ 小川未明 「めくら星」
・・・主人はさもさも甘そうに一口啜って猪口を下に置き、「何、疲労るというまでのことも無いのさ。かえって程好い運動になって身体の薬になるような気持がする。そして自分が水を与ったので庭の草木の勢いが善くなって生々として来る様子を見ると、また明日も・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・自分は人々に傚って、堤腹に脚を出しながら、帰路には捨てるつもりで持って来た安い猪口に吾が酒を注いで呑んだ。 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了って、懐中の紙入から弾機の無い西洋ナイフのような総真鍮製の物を取出して、刃を引出して真直に・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・上には飯茶碗が二つ、箸箱は一つ、猪口が二ツと香のもの鉢は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐せしめられ、駕籠屋の腕と云っては時代違いの見立となれど、文身の様に雲竜などの模様がつぶつぶで記さ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・もが栄枯窮達一度が末代とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山村俊雄と申すふところ育ち団十菊五を島原に見た帰り途飯だけの突合いととある二階へ連れ込まれたがそもそもの端緒一向だね一ツ献じようとさされたる猪口をイエどうも私はと一言を三言に分けて・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 笹島先生は、酒をお猪口で飲むのはめんどうくさい、と言い、コップでぐいぐい飲んで酔い、「そうかね、ご主人もついに生死不明か、いや、もうそれは、十中の八九は戦死だね、仕様が無い、奥さん、不仕合せなのはあなただけでは無いんだからね。」・・・ 太宰治 「饗応夫人」
出典:青空文庫