・・・ まさにこの時、衝と舳の方に顕れたる船長は、矗立して水先を打瞶りぬ。俄然汽笛の声は死黙を劈きて轟けり。万事休す! と乗客は割るるがごとくに響動きぬ。 観音丸は直江津に安着せるなり。乗客は狂喜の声を揚げて、甲板の上に躍れり。拍手は夥し・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ 時に、宮奴の装した白丁の下男が一人、露店の飴屋が張りそうな、渋の大傘を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に顕れた。――これは怪しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害って、どうやら華魁の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだっ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 片山津の温泉宿、半月館弓野屋の二階――だけれど、広い階子段が途中で一段大きく蜿ってS形に昇るので三階ぐらいに高い――取着の扉を開けて、一人旅の、三十ばかりの客が、寝衣で薄ぼんやりと顕れた。 この、半ば西洋づくりの構は、日本間が二室・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・そこへ身体ごと包むような、金剛神の草鞋の影が、髣髴として顕れなかったら、渠は、この山寺の石の壇を、径へ転落ちたに相違ない。 雛の微笑さえ、蒼穹に、目に浮んだ。金剛神の大草鞋は、宙を踏んで、渠を坂道へ橇り落した。 清水の向畠のくずれ土・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・むらむらと沈んだ、燻った、その癖、師走空に澄透って、蒼白い陰気な灯の前を、ちらりちらりと冷たい魂がさまよう姿で、耄碌頭布の皺から、押立てた古服の襟許から、汚れた襟巻の襞ひだの中から、朦朧と顕れて、揺れる火影に入乱れる処を、ブンブンと唸って来・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ としみじみ、早口の女の声も理に落ちまして、いわゆる誠はその色に顕れたのでありますから、唯今怪しい事などは、身の廻り百由旬の内へ寄せ附けないという、見立てに預りました小宮山も、これを信じない訳には行かなくなったのでありまする。「そり・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 一歳初夏の頃より、このあたりを徘徊せる、世にも忌わしき乞食僧あり、その何処より来りしやを知らず、忽然黒壁に住める人の眼界に顕れしが、殆ど湿地に蛆を生ずる如く、自然に湧き出でたるやの観ありき。乞食僧はその年紀三十四五なるべし。寸々に裂け・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ 不意に橋の上に味方の騎兵が顕れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が煌々と、一隊挙って五十騎ばかり。隊前には黒髯を怒らした一士官が逸物に跨って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上ながら急に後を捻向いて、大声に「駈足イ!」・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・時々眼を開いて見ると、部屋の中まで入って来る饑えた鼠の朦朧と、しかも黒い影が枕頭に隠れたり顕れたりする。時には、自分の身体にまで上って来るような物凄い恐怖に襲われて、眼が覚めることが有った。深夜に、高瀬は妻を呼起して、二人で台所をゴトゴト言・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 眼鏡越しに是方を眺める青木の眼付の若々しさ、往時を可懐しがる布施の容貌に顕れた真実――いずれも原の身にとっては追懐の種であった。相川や、乙骨や、高瀬や、それから永田なぞと、よく往ったり来たりした時代は、最早遠く過去になったような気がす・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫