・・・が、座敷の中へはいって来なかったなら、良雄はいつまでも、快い春の日の暖さを、その誇らかな満足の情と共に、味わう事が出来たのであろう。が、現実は、血色の良い藤左衛門の両頬に浮んでいる、ゆたかな微笑と共に、遠慮なく二人の間へはいって来た。が、彼・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・その星も皆今夜だけは、…… 誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩の心を喚び返した。「おはいり。」 その声がまだ消えない内に、ニスののする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西が、無気味なほど静にはいって来た。「手紙が参り・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、最初に彼れの顔を高笑いにくずそうとしたが、すぐ次ぎの瞬間に、彼れの顔の筋肉を一度気にひきしめてしまった。彼れは顔中の血が一時に頭の中に飛び退いたように思った。仁右衛門は酔・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・理想、現実と呼んだ人もある。空、色と呼んだ人もある。このごときを数え上げることの愚かさは、針頭の立ちうる天使の数を数えんとした愚かさにも勝った愚かさであろう。いかなるよき名を用いるとも、この二つの道の内容を言い尽くすことはできまい。二つの道・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・もっともこれらの人の名はすでになかば歴史的に固定しているのであるからしかたがないとしても、我々はさらに、現実暴露、無解決、平面描写、劃一線の態度等の言葉によって表わされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく、第一義慾・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・が、こしらえものより毬唄の方が、現実を曝露して、――女は速に虐げられているらしい。 同時に、愛惜の念に堪えない。ものあわれな女が、一切食われ一切食われ、木魚に圧え挫がれた、……その手提に見入っていたが、腹のすいた狼のように庫裡へ首を突込・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――南無大師遍照金剛――画家 うむ、魔界かな、これは、はてな、夢か、いや現実だ。――(夫人の駒下駄を視ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか。(夫人の駒下駄を手にす。苦悶の色を顕いや、仕事がある。雨の音留む。福地・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・朗快な太陽の光は、まともに庭の草花を照らし、花の紅紫も枝葉の緑も物の煩いということをいっさい知らぬさまで世界はけっして地獄でないことを現実に証明している。予はしばらく子どもらをそっちのけにしていたことに気づいた。「お父さんすぐ九十九里へ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・狭い庭で軒に迫る木立の匂い、苔の匂い、予は現実を忘るるばかりに、よくは見えない庭を見るとはなしに見入った。 北海の波の音、絶えず物の崩るる様な響、遠く家を離れてるという感情が突如として胸に湧く。母屋の方では咳一つするものもない。世間一体・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・しかも、いまの少年達にとっては、これを空想として考えることができない程、現実の問題として、真剣に迫りつゝあることです。 帝国主義の副産物として、戦争を避け得られないことは、説明すべく、あまりにはっきりとした事実であります。そして、いま、・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
出典:青空文庫