・・・法科のベルナー君や理科のデフレッガア君などは目下郷里へ帰ってたいへん静かであります。 長々と書いたもののいっこうつまらなくなりました。 パリから 私の宿はオペラの近くでちょっと引っ込んだ裏町にあります。二三町・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・これに限ったことではないが、いわゆる理科教育が妙な型にはいって分りやすいことをわざわざ分りにくく、面白いことをわざわざ鹿爪らしく教えているのではないかという気がする。子供に固有な鋭い直観の力を利用しないで頭の悪い大人に適合するような教案ばか・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・後に理科大学物理学科の課目として教わったものが「物理学」だとすると、その基礎になるべき「物理そのもの」とでもいったようなものを、高等学校在学中に田丸先生からみっしり教わったというような気がする。この時に教わったものが、今日に至るまで実に頭に・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・よく理科の書物なぞにある、ビーカーの底をアルコール・ランプで熱したときの水の流れと同じようなものになるわけです。これは湯の中に浮かんでいる、小さな糸くずなどの動くのを見ていても、いくらかわかるはずです。 しかし茶わんの湯をふたもしないで・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・高等小学校の理科の時間にTK先生という先生が坩堝の底に入れた塩酸カリの粉に赤燐をちょっぴり振りかけたのを鞭の先でちょっとつつくとぱっと発火するという実験をやって見せてくれたことを思い出す。そのとき先生自身がひどく吃驚した顔を今でもはっきり想・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・どうしたはずみであったか、とうとう私はケーベルさんに手紙を書いた。理科の一年生だが音楽の修業の事で教えていただきたい事があるから、お暇の時に面会を許してくださいというような事をかいたものらしい。 返事をもらう事ができるかどうかと危ぶんで・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・ 一九〇九年の夏帝都セントピータースバーグを見物した時には大学の理科の先生たちはたいてい休暇でどこかへ旅行していて留守であった。気象台の測器検定室の一隅には聖母像を祭ってあって、それにあかあかとお燈明が上がっていた。イサーク寺では僧正の・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・自分も時に応募していたが、自分の書いた文章が活字になったのは多分それが最初であったと思う。理科大学の二年生で西片町に家を持っていたその頃の日記の一節を「牛頓日記」と名づけて出したことがある。牛頓はニュートンと読むのであるが実に妙な名前をつけ・・・ 寺田寅彦 「明治三十二年頃」
・・・するとある日当時の高等学校長、今ではたしか京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、さっそく出かけてみると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談は・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいな・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
出典:青空文庫