・・・ああ、私は生き甲斐がなかったばかりではない。死に甲斐さえもなかったのだ。 しかしその死甲斐のない死に方でさえ、生きているよりは、どのくらい望ましいかわからない。私は悲しいのを無理にほほ笑みながら、繰返してあの人と夫を殺す約束をした。感じ・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・一月の間魂が抜けたように毎夜通い、夜通し子供のように女のいいつけに応じている時だけが生き甲斐であったが、ある夜アパートに行くと、いつの間にどこへ引き越したのか、女はもうアパートにいなかった。通り魔のような一月だったが、女のありがたさを知った・・・ 織田作之助 「世相」
・・・私の文学――このような文章は、私にはまだ書けないという点に、私は今むしろ生き甲斐を感じている。といってわるければ希望を感じている。それが唯一の希望だ。文学を除いては、私にはもうすべての希望は封じられているが文学だけは辛うじて私の生きる希望を・・・ 織田作之助 「私の文学」
・・・倒れそうになった。生き甲斐を、身にしみて感じることが無くなった。強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱいのめしのこと・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・窮極の問題は、私がいま、なんの生き甲斐も感じていないという事に在ったのでした。生きる事に何も張り合いが無い時には、自殺さえ、出来るものではありません。自殺は、かえって、生きている事に張り合いを感じている人たちのするものです。最も平凡な言いか・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・この人のために一生つくすのだ、とちゃんと覚悟がきまったら、どんなに苦しくとも、真黒になって働いて、そうして充分に生き甲斐があるのだから、希望があるのだから、私だって、立派にやれる。あたりまえのことだ。朝から晩まで、くるくるコマ鼠のように働い・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・君が海賊の空想に胸をふくらめて、様様のプランを言いだすときの潤んだ眼だけが、僕の生き甲斐だった。この眼を見るために僕はきょうまで生きて来たのだと思った。僕は、ほんとうの愛情というものを君に教わって、はじめて知ったような気がしている。君は透明・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・それがまた、おくさんの生き甲斐なのでしょう? ばかばかしい空想はやめましょう。おくさん、今夜は、どうかしていますね。現実の問題にかえりましょう。僕たちは、お宅から引越します。問題は、それだけです。僕は学校の宿直室へ行きますし、妹は、あれは、・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・一生、結婚できなくとも、母を助け、妹を育て、それだけを生き甲斐として、妹は、私と七つちがいの、ことし二十一になりますけれど、きりょうも良し、だんだんわがままも無くなり、いい子になりかけて来ましたから、この妹に立派な養子を迎えて、そうして私は・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・それまでの五日間、かれら五人の兄妹たちは、幽かに緊張し、ほのかに生き甲斐を感じている。 末弟は、れいに依って先陣を志願し、ゆるされて発端を説き起す事になったが、さて、何の腹案も無い。スランプなのかも知れない。ひき受けなければよかったと思・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫