・・・そんな場合になってしまうと、私は糸の切れた紙凧のようにふわふわ生家へ吹きもどされる。普段着のまま帽子もかぶらず東京から二百里はなれた生家の玄関へ懐手して静かにはいるのである。両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇立すると、虫眼鏡で新・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ 北さんは頑固で、今まで津軽の私の生家へいちども遊びに行った事がないのである。ひとのごちそうになったり世話になったりする事は、極端にきらいなのである。「兄さんは、いつ帰るのかしら。まさか、きょう一緒の汽車で、――」「そんな事はな・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・可笑 結局私は、生家をあざむき、つまり「戦略」を用いて、お金やら着物やらいろいろのものを送らせて、之を同志とわけ合うだけの能しか無い男であった。 × 満洲事変が起った。爆弾三勇士。私はその美談に少しも感心しなかっ・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・昨年の夏、北さんに連れられてほとんど十年振りに故郷の生家を訪れ、その時、長兄は不在であったが、次兄の英治さんや嫂や甥や姪、また祖母、母、みんなに逢う事が出来て、当時六十九歳の母は、ひどく老衰していて、歩く足もとさえ危かしく見えたけれども、決・・・ 太宰治 「故郷」
・・・待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえに勘蔵という腕のよい実直な職人を捜し当て、すべて店を任せ、どうやら恢復しかけていた。てるは、無理に奉公に出ずともよかった。てるは、殊勝らしく家事の手伝い、お針の稽古などをは・・・ 太宰治 「古典風」
れいの戦災をこうむり、自分ひとりなら、またべつだが、五歳と二歳の子供をかかえているので窮し、とうとう津軽の生家にもぐり込んで、親子四人、居候という身分になった。 たいていの人は、知っているかと思うが、私は生家の人たちと・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・終戦になって、何が何やら、ただへとへとに疲れて、誇張した言い方をするなら、ほとんど這うようにして栃木県の生家にたどりつき、それから三箇月間も、父母の膝下でただぼんやり癈人みたいな生活をして、そのうちに東京の、学生時代からの文学の友だちで、柳・・・ 太宰治 「女類」
・・・ 私は昨年罹災して、この津軽の生家に避難して来て、ほとんど毎日、神妙らしく奥の部屋に閉じこもり、時たまこの地方の何々文化会とか、何々同志会とかいうところから講演しに来い、または、座談会に出席せよなどと言われる事があっても、「他にもっと適・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・当時亮の家には腸チブスがはいって来て彼の兄や祖母や叔父が相次いで床についていたので、彼の母はその生家、すなわち私の家に来て産褥についた。姉の寝ていた枕もとのすすけた襖に、巌と竹を描いた墨絵の張りつけてあった事だけが、今でもはっきり頭に残って・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・そして母の生家を継ぐのが適当と認められていた私は、どうかすると、兄の後を継ぐべき運命をもっているような暗示を、兄から与えられていた。もちろん私自身はそれらのことに深い考慮を費やす必要を感じなかった。私は私であればそれでいいと思っていた。私の・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫