・・・ 市のあたりの人声、この時賑かに、古椎の梢の、ざわざわと鳴る風の腥蕈さ。 ――病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、他のを選んだ。 生命に仔細はない。 男だ。容色なんぞは何でもあるまい。 ただお町の繰り言に聞いても、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・日香ばし 此老の忠心きようじつの如し 阿誰貞節凜として秋霜 也た知る泉下遺憾無きを ひつぎを舁ぐの孤児戦場に趁く 蟇田素藤南面孤を称す是れ盗魁 匹として蜃気楼堂を吐くが如し 百年の艸木腥丘を余す 数里の山河劫灰に付す 敗卒庭・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 按摩済む頃、袴を着けたる男また出で来りて、神酒を戴かるべしとて十三、四なる男の児に銚子酒杯取り持たせ、腥羶はなけれど式立ちたる膳部を据えてもてなす。ここは古昔より女のあることを許さねば、酌するものなどすべて男の児なるもなかなかにきびき・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのま・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・驚いて川に飛び込む鰐は、その飛び込む前に安息している川岸の石原と茂みによって一段の腥気を添える。これがないくらいならわれわれは動物園で満足してよいわけである。それだからわれわれはもう少し充分にこれらの背景と環境とを見せてもらいたいのであるが・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・この著者がどうかすると腥さ坊主と云われる所以かもしれない。 一方では玉の巵に底あることを望んだり、久米の仙人に同情したり、恋愛生活を讃美したりしているが、また一方ではありたけの女性のあらを書き並べて痛快にこき下ろしているのである。一種の・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・波の如くに延びるよと見る間に、君とわれは腥さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術なし。たとい忌わしき絆なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣りなり・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫