・・・婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。「お婆さんはどうして?」「死んでいます」 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。「私、ちっとも知らなかったわ。お婆さんは遠藤・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・禿げ上がった額の生え際まで充血して、手あたりしだいに巻煙草を摘み上げて囲炉裡の火に持ってゆくその手は激しく震えていた。彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨てて・・・ 有島武郎 「親子」
・・・…… 少年の瞼は颯と血を潮した。 袖さえ軽い羽かと思う、蝶に憑かれたようになって、垣の破目をするりと抜けると、出た処の狭い路は、飛々の草鞋のあと、まばらの馬の沓の形を、そのまま印して、乱れた亀甲形に白く乾いた。それにも、人の往来の疎・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 人畜を挙げて避難する場合に臨んでも、なお濡るるを恐れておった卑怯者も、一度溝にはまって全身水に漬っては戦士が傷ついて血を見たにも等しいものか、ここに始めて精神の興奮絶頂に達し猛然たる勇気は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を両腕の下に引・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・どうせ、無事に帰るつもりは無いて、細君を離縁する云い出し、自分の云うことを承知せんなら、露助と見て血祭りにする云うて、剣を抜いて追いまわしたんや。」 こう云って、友人は鳥渡僕から目を離して、猪口に手をかけた。僕も一杯かさねてから、「・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・けれども歴史的の研究を凝らし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になって・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・跡には草原の中に赤い泉が涌き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、草臥れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駈けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が出・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 若者の鼻からは、血が流れました。そして、子供と若者の二人は、これらの乱暴者から、ひどいめにあわされました。彼らは、思うぞんぶんに二人をなぐると、「さあ、さっさと早くこの町から、どこへでもいってしまえ。まごまごしていると、また見つけ・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ただ、蒲地某の友人の軽部村彦という男が品行方正で、大変評判のいい血統の正しい男であるということだけが朧げにわかった。 三日経つと当の軽部がやってきた。季節はずれの扇子などを持っていた。ポマードでぴったりつけた頭髪を二三本指の先で揉みなが・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫