・・・ 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命よりは便に・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・と道の中へ衝と出た、人の飛ぶ足より疾く、黒煙は幅を拡げ、屏風を立てて、千仭の断崖を切立てたように聳った。「火事だぞ。」「あら、大変。」「大いよ!」 火事だ火事だと、男も女も口々に――「やあ、馬鹿々々。何だ、そんな体で、引・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・それが夜ででもあればだが、真昼中狂気染みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚られる、人の見ぬ間を速疾くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 向うも、ふわふわと疾くなるだ。 こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう打ちゃらかして、おさえて突立ってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳の上へ、水際さ離れて、たかったがね。一・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ が、鬼神の瞳に引寄せられて、社の境内なる足許に、切立の石段は、疾くその舷に昇る梯子かとばかり、遠近の法規が乱れて、赤沼の三郎が、角の室という八畳の縁近に、鬢の房りした束髪と、薄手な年増の円髷と、男の貸広袖を着た棒縞さえ、靄を分けて、は・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 七兵衛は腰を撓めて、突立って、逸疾く一間ばかり遣違えに川下へ流したのを、振返ってじっと瞶め、「お客様だぜ、待て、妙法蓮華経如来寿量品第十六。」と忙しく張上げて念じながら、舳を輪なりに辷らして中流で逆に戻して、一息ぐいと入れると、小・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 質の出入れ――この質では、ご新姐の蹴出し……縮緬のなぞはもう疾くにない、青地のめりんす、と短刀一口。数珠一聯。千葉を遁げる時からたしなんだ、いざという時の二品を添えて、何ですか、三題話のようですが、凄いでしょう。……事実なんです。貞操・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる矢島楫子刀自を初め今は疾くに鬼籍に入った木村鐙子夫人や中島湘烟夫人は皆当時に崛起した。国木田独歩を恋に泣かせ、有島武郎の小説に描かれた佐々木のぶ子の母の豊寿夫人はその頃のチャキチャキであっ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・こんなに汽車は疾く走っています。」といいました。 これを聞くと、くまは、さげすむような、また、あわれむような目つきをして、鶏をながめていました。そしていいました。「おまえさんは、羽を持っているじゃないか。なんのための羽なんですか。私・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
・・・いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛様もお通に免じ、子までなしたる三勝どのを、疾くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまいに……」と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかっ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫