・・・情のために道を迂回し、あるいは疾走し、緩歩し、立停するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑しとせざりしところなり。 六 老人はなお女の耳を捉えて放たず、負われ懸くるがごとくにして歩行きながら、「お香、こう・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・このとき、横あいから前に出た老人があったが、ふいのことであり、彼は、この老人を傷つけまいとの一念から、とっさにハンドルをまわしたので、おりから疾走してきた自動車に触れて、はねとばされたのでした。 彼は、直ちに病院へかつぎ込まれました。傷・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・僕はたしかに眼が良い。疾走する電車の中にいる知人を、歩道をぶらついている最中に眼ざとく見つけるなど朝飯前である。雑閙の中で知人の姿を見つけるのも巧い。ノッポの一徳でもあろうが、とにかく視力はすぐれているらしい。だからと言って、僕はべつに自分・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・と云うので、教えられたままにそこから直角に曲って南へ正しい街道を求めながら人気の稀な多摩の原野を疾走した。広大な松林の中を一直線に切開いた道路は実に愉快なちょっと日本ばなれのした車路で、これは怪我の功名意外の拾い物であった。 帰路は夕日・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・向嶋の堤防はこの辺までも平に地ならしされて、同じように自働車やトラックの疾走する処にしている。百花園は白鬚神社の背後にあるが、貧し気な裏町の小道を辿って、わざわざ見に行くにも及ばぬであろう。むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺の堂宇・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・いずれも市井の特色を描出して興趣津々たるが中に鍬形くわがたけいさいが祭礼の図に、若衆大勢夕立にあいて花車を路頭に捨て見物の男女もろともに狼狽疾走するさまを描きたるもの、余の見し驟雨の図中その冠たるものなり。これに亜ぐものは国芳が御厩川岸雨中・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・(この場合において基は鬼事故に走者はなるべく球の自己に遠かる時を見て疾走して線を通過すべし。例えば走者第一基にあり、これより第二基に到らんとするには投者が球を取て本基(の打者に向って投ずるその瞬間を待ち合せ球手を離るると見る時走り出すなり。・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・ところでこの間馬場先を通っていたらかねて新聞で披露されていた犯人逮捕用ラジオ自動車が消防自動車のような勢でむこうから疾走して来た。通行人も珍しげにそれをよけて見送っていた。ふと私は民間自動車のラジオは許されていず、その設備のある新車体はセッ・・・ 宮本百合子 「或る心持よい夕方」
・・・明るい廃墟の市の午後の街上を疾走するのは我々をのせた自動車ぎりであった。ソンムとヴェルダンとはヨーロッパ大戦を通じて最も激しい犠牲の多かった北部フランスの古戦場なのである。 ヴェルダン市の市役所のあったところ、大病院のあったところ、学校・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・ ベルを鳴らして疾走して来る電車はどれも満員だ。引け時だからたまらない。群衆をかきわけて飛び出した書類入鞄を抱え瘠せた赤髭の男が、雨外套の裾をひるがえして電車の踏段に片足かけ、必死になって ――入り給え! 入り給え!とやっている・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
出典:青空文庫