・・・ 投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。 ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻にいかにしけん、ひとたびその平生を失せし・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・枕をば高くしつ。病める人は頭埋めて、小やかにぞ臥したりける。 思いしよりなお瘠せたり。頬のあたり太く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の瞼に血の色染めて、うつくしさ、気高さは見まさりたれど、あまりおもかげのかわりたれば、予は坐りもやらで、襖の・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ 時どき彼は、病める部分を取出して眺めた。それはなにか一匹の悲しんでいる生き物の表情で、彼に訴えるのだった。 三 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。―― 彼は酔っ払った嫖客や、嫖客を呼びとめる女の声・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・老えるも若きも、病めるも健やかなるも。されどたれあってこの老人を気に留める者もなく、老人もまた人が通ろうと犬が過ぎ行こうと一切おかまいなし、悠々行路の人、縁なくんば眼前千里、ただ静かな穏やかな青空がいつもいつも平等におおうているばかりである・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ 年は二十を越ゆるようやく三つ四つ、背高く肉やせたり、顔だち凜々しく人柄も順良に見ゆれどいつも物案じ顔に道ゆくを、出であうこの地の人々は病める人ぞと判じいたり。さればまた別荘に独り住むもその故ぞと深くは怪しまざりき。終日家にのみ閉じこも・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・野布袋という奴は元来重いんでございます、そいつを重くちゃいやだから、それで工夫をして、竹がまだ野に生きている中に少し切目なんか入れましたり、痛めたりしまして、十分に育たないように片っ方をそういうように痛める、右なら右、左なら左の片方をそうし・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・我らのほかにも旅人三人ばかり憩い居けるが、口々にあらずもがなのおそろしき雨かなとつぶやき、この家の主が妻は雷をおそれて病める人のようにうちふしなやむ。 されどとかくする中、さしもの雷雨もいささか勢弱りければ、夜に入らぬ中にとてまた車を駛・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・文学界に関係される頃から、透谷君は半ば病める人であったと、後になって気が着いたが、皆と一緒になって集って話していても、直ぐに身体を横にしたり、何か身を支えるものが欲しいというような様子をしていた。斯ういう身体だったから、病的な人間の事にも考・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・勝手な音を無茶苦茶に衝突させ合ったのではいたずらに耳を痛めるだけであろう。 バイオリンの音を出すのでも、弓と弦との摩擦という、言わば一つの争闘過程によって弦の振動が誘発されるとも考えられる。しかしそれは結局は弦の美しい音を出すための争闘・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・しかし病めるこの家の主婦は前夜に死んだのである。いまわと云う時に、死んだ娘の名を呼んだとも云う。 養子に離れ、娘にも妻にも取り残されて、今は形影相弔するばかりの主人は、他所目には一向悲しそうにも見えず、相変らず店の塵をはたいている。台所・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
出典:青空文庫