・・・憤怒、悲哀、痛苦を一まとめにしたような顔を曇らせて、不安らしく庭をあちこち歩き廻るのである。異郷の空に語る者もない淋しさ佗しさから気まぐれに拵えた家庭に憂き雲が立って心が騒ぐのだろう。こんな時にはかたくななジュセッポの心も、海を越えて遥かな・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・かつて日露戦役に従ってあらゆる痛苦と欠乏に堪えた時の話を同君の口から聞かされてから以来はこういう心配は先ずあるまいと信ずるようになったのである。 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・そうすると馬は尻尾の痛苦に辟易していななく元気がなくなると書いてある。どうも西洋人のすることは野蛮で残酷である。東洋では枚をふくむという、もっと温和な方法を用いていたのである。同じ注に、欧州大戦のときフランスに出征中のアメリカ軍では驢馬のい・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅にたんじきす。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔にゅうなんにして、唯温水を憶う。時に俄に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等これを食す・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ジャックという一人の人間が、一定の社会史の期間をとおして、その矛盾、その悪、その痛苦につきころがされ、おき上り、また倒れつつ人間の理性を喪わず生きつつある姿として描かれている。ジャックとはちがった生きかたをする父や兄や他のチボー家の人々をも・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・反対に、日々の労働の痛苦、いまの社会で母性が経験する大小無数の苦労。失業のいたで。生活の安定を見出そうとして階級として努力するその過程にうけている容赦ない政治的な経験などによって、わたしたちの、人民としての階級的なヒューマニティーはますます・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・ファシズムによる第二次大戦は、破壊の残虐と痛苦で人類の心臓を出血させた。そして、きょうになってみれば、生命を奪われ生活を破壊されたものは、どこの国においても人民の老若男女、子供であったことが、いよいよ明瞭である。 日本のなかでの帝国主義・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・わたしは一度ならず、女学校時代の思い出の痛苦をかいたから。そしてそれはまざまざと書かれた。 五年生だったとき、一人の同級生が、ある日きれいに薄化粧して来た。朝の第一時間がはじまったとき、担当の年をとった女先生から、その顔をすぐ洗って来る・・・ 宮本百合子 「歳月」
・・・マダム・キュリーは小学生だったとき、奪われている母国語についてどんな痛苦を経験したろうか。ワンダ・ワシレフスカヤの文学は、ポーランドの人々が真に人民のいのちを生きる言葉としてポーランド語をとりかえしてゆく一歩一歩の間から生れた。 日本の・・・ 宮本百合子 「三年たった今日」
・・・すべての女性が生みの痛苦に耐えうるように。しかし個々の意識人の人生において、経験は蓄積されなければならず、批判・発展が継続してされなければならず、その結果としての閲歴がもたれなければならない。社会の歴史にも同じことが必要である。感性的にだけ・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
出典:青空文庫