・・・新緑のあざやかな中に赤瓦白壁の別荘らしい建物が排置よく入り交じっている。そのような平和な景色のかたわらには切り立った懸崖が物すごいような地層のしわを露出してにらんでいたりする。湖の対岸にはまっ黒な森が黙って考え込んでいる。 ルツェルンも・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・室の入口の壁に立っているスチームヒーターの上に当る白壁が黒く煤けているのが特に目立って不愉快であった。妙な事にはこの汚い床の上に打倒れてうめいている自分とは別にまた自分があって倒れている自分を冷やかに傍観しているような気がした事であった。・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・それを越して霞ヶ関、日比谷、丸の内を見晴す景色と、芝公園の森に対して品川湾の一部と、また眼の下なる汐留の堀割から引続いて、お浜御殿の深い木立と城門の白壁を望む景色とは、季節や時間の工合によっては、随分見飽きないほどに美しい事がある。 遠・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・それが日本ではどうだ。白壁があったら楽書するものときまって居る。道端や公園の花は折り取るものにきまって居る。もし巡査が居なければ公園に花の咲く木は絶えてしまうだろう。殊に死人の墓にまで来て花や盛物を盗む。盗んでも彼らは不徳義とも思やせぬ。む・・・ 正岡子規 「墓」
・・・二等室というので余り広くはないが白壁は奇麗で天井は二間ほどの高さもある。三尺ばかりの高さほかない船室に寐て居た身はここへ来て非常の愉快を感じた。殊に既往一ヶ月余り、地べたの上へ黍稈を敷いて寐たり、石の上、板の上へ毛布一枚で寐たりという境涯で・・・ 正岡子規 「病」
・・・それでも面白かったねえ、ギルバート群島の中の何と云う島かしら小さいけれども白壁の教会もあった、その島の近くに僕は行ったねえ、行くたって仲々容易じゃないや、あすこらは赤道無風帯ってお前たちが云うんだろう。僕たちはめったに歩けやしない。それでも・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・赤土に切りたほされし杉の木の 静かにふして淡く打ち笑む白々と小石のみなる河床に 菜の花咲きて春の日の舞ふ水車桜の小枝たわめつゝ ゆるくまはれり小春日の村白壁の山家に桃の影浮きて 胡蝶は・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ どんな病室であったかまるで覚えては居ないが、何でも入口から室までの廊下が大変長く静かで、両側の白壁に気味悪く反響する足音におびやかされて、中頃まで来ると、馳け出さずには居られない気持になったのを思い出す事が出来た。 うっすり思い浮・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・がらんとした白壁の裾には、荒繩で束った日露時報の返品が塵にまみれて積んである。弾機もない堅い椅子が四五脚、むき出しの円卓子の周囲に乱雑に置いてあった。その一つを腰の下に引きよせるや否や、ブーキン夫人は新しい勢いで云いだした。「レオニード・・・ 宮本百合子 「街」
木村は役所の食堂に出た。 雨漏りの痕が怪しげな形を茶褐色に画いている紙張の天井、濃淡のある鼠色に汚れた白壁、廊下から覗かれる処だけ紙を張った硝子窓、性の知れない不潔物が木理に染み込んで、乾いた時は灰色、濡れた時は薄墨色・・・ 森鴎外 「食堂」
出典:青空文庫