・・・私はその時、ぎょっとして無劫の世界を眼前に見る。 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦きはてる程夥しくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。それ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・この時人が精力を搾って忘れようと勉めた二つの道は、まざまざと眼前に現われて、救いの道はただこの二つぞと、悪夢のごとく強く重く人の胸を圧するのである。六 人はいろいろな名によってこの二つの道を呼んでいる。アポロ、ディオニソスと・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・附馬牛の山男、閉伊川の淵の河童、恐しき息を吐き、怪しき水掻の音を立てて、紙上を抜け出で、眼前に顕るる。近来の快心事、類少なき奇観なり。 昔より言い伝えて、随筆雑記に俤を留め、やがてこの昭代に形を消さんとしたる山男も、またために生命あるも・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ しかしながら牛の後足に水がついてる眼前の事実は、もはや何を考えてる余地を与えない。自分はそれに促されて、明日の事は明日になってからとして、ともかくも今夜一夜を凌ぐ画策を定めた。 自分は猛雨を冒して材木屋に走った。同業者の幾人が同じ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・殊に小説の梗概でも語らせると、多少の身振声色を交えて人物を眼前に躍出させるほど頗る巧みを究めた。二葉亭が人を心服さしたのは半ばこの巧妙なる座談の力があった。 二葉亭は極めて謙遜であった。が、同時に頗る負け嫌いであった。遠慮のない親友同士・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・政治界でも実業界でも爺さんでなければ夜も日も明けない老人万能で、眼前の安楽や一日の苟安を貪る事無かれ主義に腰を叩いて死慾ばかり渇いている。女学校を出たてのお嬢さんが結婚よりも女の独立を主張し、五十六十のお婆さんまでが洋服を着て若い女と一緒に・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・今や、眼前の事実に対して右か、左か、芸術家も畢竟、一個の人間である限り、社会の一人である限り、態度を決する時が来たのです。 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・そしてかゝる芸術家は、眼前の社会に対して、最も真実であり、人間的愛を感ずる人道主義の高唱者に他ならないと私は感ずるものであります。 小川未明 「芸術は生動す」
・・・彼はしきりにこうした気持を煽りたてて出かけて行ったのだが、舅には、今さら彼を眼前に引据えて罵倒する張合も出ないのであった。軽蔑と冷嘲の微笑を浮べて黙って彼の新生活の計画というものを聴いていたが、結局、「それでは仕度をさせて一両日中に遣ること・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・部屋から眺めているいつもの風景は、今彼の眼前で凩に吹き曝されていた。曇空には雲が暗澹と動いていた。そしてその下に堯は、まだ電燈も来ないある家の二階は、もう戸が鎖されてあるのを見た。戸の木肌はあらわに外面に向かって曝されていた。――ある感動で・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫