・・・ 坐浴に使う硫黄の匂いは忽ち僕の鼻を襲い出した。しかし勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかった。僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思い出しながら、努めてしっかりと歩いて行った。 一時間ばかりたった後、僕は僕の部屋にとじこもったまま、窓の前の・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 菊枝は、硫黄ヶ島の若布のごとき襤褸蒲団にくるまって、抜綿の丸げたのを枕にしている、これさえじかづけであるのに、親仁が水でも吐したせいか、船へ上げられた時よりは髪がひっ潰れて、今もびっしょりで哀である、昨夜はこの雫の垂るる下で、死際の蟋・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・…… 二階の窓ガラス越しに、煙害騒ぎの喧ましい二本の大煙筒が、硫黄臭い煙を吐いているのがいつも眺められた。家のすぐ傍を石炭や礦石を運ぶ電車が、夜昼のかまいなく激しい音を立てて運転していた。丈の低い笹と薄のほかには生ええない周囲の山々には・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・紫色や、硫黄色の煙が村の上に低迷した。狙撃砲からは二発目、三発目の射撃を行った。それは何を撃つのか、目標は見えなかった。やたらに、砲先の向いた方へ弾丸をぶっぱなしているのであった。「副官、中隊を引き上げるように命令してくれ!」 大隊・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・たとえば硫黄岳とか硫黄山と言っても、それがはたして硫黄を意味するものであるか実は不明である。のみならずむしろあとから「硫黄」をうまくはめ込んだものらしいと思われるふしもある。むしろ北海道の岩雄山や九州の由布岳などと関係がありはしないかと疑わ・・・ 寺田寅彦 「火山の名について」
・・・一同は遂にがたがた寒さに顫出す程、長評定を凝した結果、止むを得ないから、見付出した一方口を硫黄でえぶし、田崎は家にある鉄砲を準備し、父は大弓に矢をつがい、喜助は天秤棒、鳶の清五郎は鳶口、折から、少く後れて、例年の雪掻きにと、植木屋の安が来た・・・ 永井荷風 「狐」
・・・今日実習が済んでから農舎の前に立ってグラジオラスの球根の旱してあるのを見ていたら武田先生も鶏小屋の消毒だか済んで硫黄華をずぼんへいっぱいつけて来られた。そしてやっぱり球根を見ていられたがそこから大きなのを三つばかり取って僕に呉れた。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・けれども木によりまたその場処によっては変に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。硫黄を燃せばちょっと眼のくるっとするような紫いろの焔をあげる。それから銅を灼くときは孔雀石のような明るい青い火をつくる。こんなにいろはさまざまだがそれはみん・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・ 早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。 とつぜん、右手のシグナルばしらが、がたんとからだをゆすぶって、上の白い横木を斜めに・・・ 宮沢賢治 「月夜のでんしんばしら」
出典:青空文庫