・・・あるいは屋敷の門口に立ててある瓦斯灯ではないかと思って見ていると、その火がゆらりゆらりと盆灯籠の秋風に揺られる具合に動いた。――瓦斯灯ではない。何だろうと見ていると今度はその火が雨と闇の中を波のように縫って上から下へ動いて来る。――これは提・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌を臍のあたりまで吹き抜けた。出臍の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向では阿蘇の山がごうう・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・波の上に飛びかう鶺鴒は忽ち来り忽ち去る。秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあがりつ胡蝶のひらひらと舞い出でたる箱根のいただきとも知らずてやいと心づよし。遥かの空に白雲とのみ見つるが上に兀然として現われ出でたる富士ここからもなお三千仞はあ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・み水に声なき日暮かな燕啼いて夜蛇を打つ小家かな梨の花月に書読む女あり雨後の月誰そや夜ぶりの脛白き鮓をおす我れ酒かもす隣あり五月雨や水に銭蹈む渡し舟草いきれ人死をると札の立つ秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者鹿ながら・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。 そしてただひとり暗いこけももの敷物を踏んでツ・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・人だってあるでなし、実は私も少し意外に感じたので〔以下原稿数枚なし〕は町をはなれて、海岸の白い崖の上の小さなみちを行きました、そらが曇って居りましたので大西洋がうすくさびたブリキのように見え、秋風は白いなみがしらを起し、小さな漁船は・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
秋風が冷や冷やと身にしみる。 手の先の変につめたいのを気にしながら書斎に座り込んで何にも手につかない様な、それで居て何かしなければ気のすまない様な気持で居る。 七月からこっち、体の工合が良くない続きなので、余計寒が・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・時はたって、秋風がふきそめるきのうきょう、この不可解な状態のかげにひそむ一つの理由として生活的な問題がおいおい一般の推測に浸透してきた。丸の内の宏壮な建物を見てもわかるように、保険会社は富んでいるものだが、現在、生命保険会社の支払い方法は、・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・ 伊織は京都でその年の夏を無事に勤めたが、秋風の立ち初める頃、或る日寺町通の刀剣商の店で、質流れだと云う好い古刀を見出した。兼て好い刀が一腰欲しいと心掛けていたので、それを買いたく思ったが、代金百五十両と云うのが、伊織の身に取っては容易・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・ 秋風がたって九月ちかくなったころ、高田が梶の所へ来た。栖方の学位論文通過の祝賀会を明日催したいから、梶に是非出席してほしい、場所は横須賀で少し遠方だが、栖方から是非とも梶だけは連れて来て貰いたいと依頼されたということで、会を句会に・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫