・・・ 私は眼を溪の方の眺めへ移した。私の眼の下ではこの半島の中心の山彙からわけ出て来た二つの溪が落合っていた。二つの溪の間へ楔子のように立っている山と、前方を屏風のように塞いでいる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二単衣のような山褶・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・自分の影は左側から右側に移しただけでやはり自分の前にあった。そして今は乱されず、鮮かであった。先刻自分に起ったどことなく親しい気持を「どうしてなんだろう」と怪しみ慕しみながら自分は歩いていた。型のくずれた中折を冠り少しひよわな感じのする頚か・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・かくて彼が心は人々の知らぬ間に亡び、人々は彼と朝日照り炊煙棚引き親子あり夫婦あり兄弟あり朋友あり涙ある世界に同居せりと思える間、彼はいつしか無人の島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。 彼に物与えても礼言わずなりぬ。笑わずなりぬ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 局長は、小使から局員の方へそのうわ眼を移しながら云った。 小使は、局長の光っている眼つきが、なお自分に嫌疑をかけているのを見た。彼は、反抗的な、むずかしい気持になった。彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・大内は西方智識の所有者であったから歟、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、我邦の城は孑然として町の内、多くは外に在るのを常として、町は何等の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町を繞らして濠を有し、町の出入口は厳重な木戸木・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・私も冬の外套を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋の障子の外に移した。わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。 私が早く自分の配偶者を失い、六歳を頭に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・また、ある夕方、御飯をおひつに移している時、インスピレーション、と言っては大袈裟だけれど、何か身内にピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・に作り、それを紺屋に渡して染めさせたのを手機に移して織るのであった。裏の炊事場の土間の片すみにこしらえた板の間に手機が一台置いてあった。母がそれに腰をかけて「ちゃんちゃんちゃきちゃん」というこれもまた四拍子の拍音を立てながら織っている姿がぼ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・お絹はそう言って、銚子にごぽごぽ酒を移していた。 廓はどこもしんとしていた。 そこへお芳も連れの楼主のお神といっしょにやってきた。七 ある日も道太は下座敷へ来て、茶の間にいるお絹や、中の間で帳づけをしているおひろと話・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 四 そう呟いて善ニョムさんはまた向き直って、肥料を移した手笊を抱えて、調子よく、ヒョイヒョイと掴んで撒きながら、「金の大黒すえてやろ、ホイキタホイ」 麦の芽は、新しく撒かれる肥料の下で、首を振り、顔を覗かし・・・ 徳永直 「麦の芽」
出典:青空文庫