・・・が、やがて煙の消えたパイプへもう一度火を移すと、「私はほんとうにあったかとも思うのです。ただ、それが稲見家の聖母のせいだったかどうかは、疑問ですが、――そう云えば、まだあなたはこの麻利耶観音の台座の銘をお読みにならなかったでしょう。御覧・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・それから椅子に腰をおろし、とにかく巻煙草に火を移すことにした。巻煙草はなぜかエエア・シップだった。人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。僕は向うにいる給仕を呼び、スタアを二箱貰うことにした。しかし給仕を信用すれば、スタアだけは生憎品切・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・で、私は母や弟妹に私の心持ちを打ち明けた上、その了解を得て、この土地全部を無償で諸君の所有に移すことになったのです。 こう申し出たとて、誤解をしてもらいたくないのは、この土地を諸君の頭数に分割して、諸君の私有にするという意味ではないので・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・より、向こう三軒両隣の窓の中から人々が顔を突き出して何事が起こったかとこっちを見る時、あの子供と二人で皆んなの好奇的な眼でなぶられるのもありがたい役廻りではないと気づかったりして、思ったとおりを実行に移すにはまだ距離のある考えようをしていた・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪む、とあらず、歩を移すのは渠自身、すなわち立花であった。 茫然。 世に茫然という色があるなら、四辺の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 欠火鉢からもぎ取って、その散髪みたいな、蝋燭の心へ、火を移す、ちろちろと燃えるじゃねえかね。 ト舌は赤いよ、口に締りをなくして、奴め、ニヤニヤとしながら、また一挺、もう一本、だんだんと火を移すと、幾筋も、幾筋も、ひょろひょろと燃え・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・宿についても飲むも食うも気が進まず、新聞を見また用意の本など出してみても、異様に神経が興奮していて、気を移すことはできなかった。見てきた牛の形が種々に頭に映じてきてどうにもしかたがない。無理に酒を一口飲んだまま寝ることにした。 七日と思・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・ しかし、それは、木を移す時期でなかったので、実もしなびてしまえば、木も枯れてしまいました。 けっきょく、男は、ほねおり損に終わったわけです。 小川未明 「ある男と無花果」
たま/\書斎から、歩を街頭に移すと、いまさら、都会の活動に驚かされるのであります。こちらの側から、あちらの側に行くことすら、容易ならざる冒険であって時には、自分に不可能であると感じさせる程、自動車や、自転車や電車がしっきりなしに相つい・・・ 小川未明 「街を行くまゝに感ず」
・・・何ですか、昨日の話の病人を佃の方へ移すことは、まあ少し見合わせるように……今動かしちゃ病人のためにもよくなかろうし、それから佃の方は手広いことには手広いが、人の出入りが劇しくって騒々しいから、それよりもこっちで当分店を休んだ方がよかろうと思・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫